明日からの営業についてと、今の心境をつづります。

2020年3月31日ミズタニ行進曲

おはようございます。今日は2020年3月31日火曜日です。時刻は8時50分の朝です。私はいま、紙屋川の店舗に来ています。本来ならランチの準備を忙しく始めている時間です。昨日はメニュー替えでしたから、4月メニューを今日からご用意できる段取りでした。昨夜は黒板メニューもお手元のメニューも完成させました。いつもなら出来上がったメニューを皆さんに向けてインスタなどに投稿するのですが、今日をこうしてお休みにしたので投稿を控えました。そうです。今日はお店をお休みしました。

つい二日前に京都市内でクラスター感染が発生した可能性があると新聞に載りました。京都産業大学の学生が卒業旅行で欧州を巡って帰国し、コロナウィルスに感染していたことが判明しました。その学生らは卒業祝賀会に参加していたため、同席者にも感染を拡大するきっかけを作ってしまいました。京産大は学生に自粛要請を出していたでしょうが、学生らは卒業旅行へ出かけてしまいました。強制力がない「要請」を自己責任論として論陣を張る傾向も強くなってきましたが、それは後に書きます。学生らは記念旅行に胸躍らせて行ったことと思います。

イルピアット紙屋川では(告知をしてきませんでしたが)、いま、学生アルバイトを謹慎としています。私は3月19日に「換気が悪い」「人数が多い」「近距離である」という三要件を満たす会場を自粛するように全てのアルバイトへ通知をしました。しかし彼女たちは3月20日に先輩たちの「追いコン」が予定されていました。そして、私からの要請に悩む内容を正直に伝えてくれました。「お店で働けない期間を作ってしまっても、参加させて下さい。」と気持ちを吐露してくれました。私は困惑もしましたが、彼女たちはこの時間に人生を重ねています。ですから私は「参加した方がいい。ただし、紙屋川は4月7日以降にしか働けない。謹慎してください。」と伝えました。この判断は当時、厳しすぎるとも考える風潮はありましたが、私は譲りませんでした。私が自分で判断して自粛要請をしたのです。そこを越えてしまったら、やはり、働いてもらえません。

アルバイトはおはるに代わってもらい、ボブにも手伝ってもらうことで支障は出ませんでした。私は一人で営業する(ワンオペレーション、ワンオペ)も考えていましたから、運営に問題はありませんでした。私のような小さなお店はスタッフも少ないし、運転もシンプルです。来店されるお客さまの数も分かっています。何よりも、お客さま皆さんが持つ感染リスクへの意識が高い。私以上に注意を払う方が多く見えます。その意識は本当に、お店の運営を支えてくださっていますし、私も襟を正すきっかけと緊張感をいただいています。


 
幸いなことに、紙屋川のアルバイトが参加した追いコンなどから感染者は出ていません。「いまは」と言えるかもしれませんが、謹慎期間中は彼女たちと特に連絡を取って注意を払いたいと思います。付け加えますが、彼女たちには感染リスクの注意点とその意識を切らさずに行動するよう強く働きかけ続けています。彼女たちはいつも迂闊ではありませんし、無知でもありません。配慮なしでもなければ、粗暴でもありません。私は彼女たちを謹慎にしていますが、彼女たちへの評価は変わりません。これはもちろん、擁護です。大切なスタッフには変わりありません。私は彼女たちが先輩を送り出す企画を真剣に組み立ててきた事を知っています。「参加しない後悔と、参加する後悔」という雑な天秤はあったにせよ、その天秤ばかりを迂闊に使用したにせよ、その意思をどうやって守れるかも考えます。

今回の感染状況は緊張もします。できる注意は払いたい。お客さまからの要望を断らずに営業を続ける方法の最良はどういう形か。いま営業することは迂闊なのか。お客さまのご来店人数を制限させていただき、お客さま同士の間隔を空けてご利用いただき、少し寒いかもしれませんが、扉を全て開放させていただき換気しながら営業する案とか。アルバイトを用意せず、私だけで営業し万が一の時を明確に追えるように整えておく必要とか。私は「経済を回すため」とか、「お店の経営を支えるため」などを重要に考えて動けません。そういう事の前に、感染しない環境を作らない方法を考えています。「人が動かないことが一番」という回答は分かっています。ここで、私の意見を言わせていただいてよろしいですか。

「人が動かないことが一番」というのは「感染しない環境」の最良・最善であることは自明です。政府はそれを「要請」として私たちに「お願い」しています。先週末に主要都市で下された行動自粛要請はまさに、そういう意味でした。要請を「強制」へ変えたら今度は「どう補償するのか」という声が強くなると言います。「要請」の今でも補償をどうするかという議論はあります。私はこの「要請・強制」という行政政府判断と国民の「補償」ということが何の為に叫ばれているかと考えると「感染を止めるため」という一致なのだと考えています。つまりは「感染を止めるため」にそれぞれが「条件」を出している。そしてその条件の折り合いで揉めている。

いいですか。「感染を止める」事で一致しているのに、行政政府は「要請・強制する為の条件を考え整えて判断する」という。受ける国民は「様々を禁止するなら補償を明確にすべきで、補償内容を折衝して約束させてから条件にして従う」という。分かりますか?本当に両者には「感染を止める」意思と覚悟がありますか?私はお店を営業するかどうかを判断するとき「人が動かないことが一番」と分かっています。経済とか、経営とかそういう事ではなくて、「感染を止める」ならば人の動きを止めればいい。そこに条件は必要ない。もう何万人も死にました。もう何十万人も感染しました。この数は絶望的にもっと増える。直接的な感染で死ななくても、この影響で死ぬ人間の総数は第二次世界大戦を超えて行くかも知れない。日常はこんなにもむごく奪われてしまった。家族が感染し途方に暮れる人も生んだ。先の京産大生たちも、関係者も、感染する前の時間には戻れない。そういう残酷さも、むごさも、厳しさも、味合わされている人間を生み出し続けながら、一体、感染を止める為に何の条件が必要なのか。

強制する為の条件を整えないと政治責任を問われることがそんなにも恐ろしいなら、政治家になどならなければいいのだ。補償が約束されなければ感染を止める意思も実行できなければ、世界が本当に壊れてしまうまで補償を叫べばいいのだ。バカバカしい。本当にバカバカしい。もちろん、絶望的なのは今の内閣には知性も倫理も欠落している事だし、安倍晋三氏は疑惑だらけで権力を自由気ままに使ってきた痕跡があることも、百も承知だ。許せない。夫が夫なら、妻も妻だ。そういう夫婦だ。こんな有事にこの内閣だったことを日本国民は焼き付けておかなくてはならない。決して忘れてはならない。しかしこれを「好機」として政権を批判しても感染は止まらない。一体、「感染を止める条件」とは何だ。感染は条件次第で「止める・止められる」ものじゃない。感染は環境でしか止められない。行政政府は「とにかく、動くのをやめてくれ」と決断すべきである。補償は済んでから考える他ない。

日本全土にその戒厳令を敷かなくては未来の感染経路も範囲も理解できないことは明確です。日本は島国なので他国よりもそれを敷きやすいはずです。これを無責任と断罪するならすればいい。感染は罪ではありませんが脅威です。同様に、迂闊な行動も脅威です。行動が感染同様に脅威である以上、行政政府は緊急事態宣言を出すべきと考えます。私は行政政府がその判断を下してくれれば安心して休業できます。一斉に休業しなくては効果も期待できません。その結果、改善することを期待しますが、こればかりは分かりません。イタリアはそうしたのに悪くなる一方です。

私はお店を営業するかどうかを昨夜から逡巡としてきました。私は補償の有無で迷っているのではありません。飲食店としての役割を考えて悩んでいます。行政政府には条件を整えずに宣言を出して欲しいですし、国民も補償内容を条件に従うと決めないで欲しいという立場です。今回は国の判断に、ただ従います。私個人の意思では弱いのです。社会的な支持があって社会的な活動は保障されています。だからこそ政治判断が必須です。事態が悪化してからでは手遅れだと分かっているのに。私は営業をどうしようか。

私は飲食店が「社会的インフラ」だと考えています。ですから、行政指導も法令遵守も必要だと考えています。これは飲食店の義務というよりは条件と言っていいです。その条件を満たしてお店は運営できます。私はその店舗で調理技術を振るいます。料理を提供します。食事の時間を段取りします。そして食事は快適でなくてはなりません。飲食店は快適であるべきです。これは条件ではなく美意識です。この美学があり、私たちは調理技術を研鑽する甲斐があります。その先にお客さまのお食事を快適に演出します。

お客さまは日常を保つために飲食店へ足を運びます。自分の好みに合ったお店で食事をします。それぞれに違う日常と好みを自由に選べる場のことを市場と呼んでいます。市場には本当に目が回るほどの飲食店舗があります。食事の提供方法もそれぞれ違います。価格も違います。サービスも快適さも違います。味も種類も違います。この差異をお客さまは自身の日常に照らし合わせて、その時の飲食店舗を考えます。お客さまは市場の彩を楽しみます。私たちは選ばれたなら、食事を快適に提供する努力をします。

嫌な一日だったり、嬉しいことがあったり、久しぶりの再会だったり、何でもなくいつもと同じだったり、愚痴や不満の募った気持ちを慰めたり、喜びを共有したい気持ちだったり、お祝いやお礼を伝える場であったり、純粋においしいものを食べたい気持ちだったり、店主の顔が見たいだけだったり、家が近くだったり、何かのついでだったり、時間がなくて選んだ結果だったり、明るくなりたかったり、泣きたかったり、笑いたかったり、寂しかったり、考え事をしたかったり、誰かが作ったものを食べたかったり。こうした色々な日常を飲食店舗は「場」を用意して皆さんを待っています。

飲食業は食事を通して日常を支えられる職業です。私たちは社会的インフラでも最後の砦と言っていい。私がここにいるだけで、お店に灯りがあるだけで、通りを照らしているだけで、お店に立ち寄らなくても「日常はまだ壊れていないんだ」と思う人はいるかも知れない。私の職業は社会的インフラでもしんがりで、何とか踏ん張らなくてはいけないのではないのか。全ての飲食店舗がそうあるべきとまでは言いません。ならば、私は行政政府が緊急事態宣言を下すまではしんがりでなくてはならないのではないか。こんなに京都市内にも不安が増大している今だからこそ、ここに足を運ぶ人の日常を支える役割は重要ではないだろうか。

私は「人が動かないことが一番」という回答を理解しています。私は京都市内の今を考える時、家にこもって娘と「あつまれ!どうぶつの森」をする方が健全のように思います。妻は医療機関ですし、私は飲食業です。どちらも感染のリスクはあり、どちらから始まっても不思議はありません。まだ感染していないであろう今だからこそ取れる方法だとも考えます。しかし、私は昨日と今日の違いを具体的に分かっていません。それは行政判断に決断を委ねているからです。京都市行政は緊急事態宣言を出していません。昨日と今日とで違うのは感染者数だと分かっています。脅威も増大しました。しかし、日常を止める判断を行政はしない。行政判断に責任を押し付けているのではなく、その判断を持って休業できる覚悟が決まります。分かって欲しいのは、勝手に営業したいのではないという事です。

飲食業は社会的インフラです。行政が「止める」と言えば従います。要請でも構いません。具体的で簡潔な言葉ではっきりと言って欲しい。こうして書いていてもすっきりしませんが、私は明日から通常営業をしようと思います。お店は寒くても扉を開放します(たぶん)。ご利用人数も制限させてください(おそらく)。お客さまの入れ替わりをなるべくせずにのんびり営業しようと思います(これが理想です)。アルバイトも当面は入れず私一人で接客します(懐かしいでしょ)。これまでもできることをしてきた結果で私はここに立てています。いまできるギリギリを当面はしてみます。様子見での営業ですが、無理に来店しないようご注意ください。自宅待機が理想です。材料もあるもので展開することになるかもしれません。ですが、何かは作れます。

長々と書きましてすみません。途中、感情的にもなってしまいました。しかし想いを素直にお知らせすることでご理解いただける事もあると思いました。直ぐに決断できずご迷惑をおかけしました。今日はこのまま休みます。自宅で家族にパスタを作ろうと思います。明日からは皆さんに作らせてください。私はいまの状況をよいと思っていません。ですが、諦めてもいません。社会がどんどん悪くなっても、みんなが暗くなっても、何とかここでパスタぐらい出していたいです。行政から要請があるまで紙屋川でお待ちしています。

イルピアット紙屋川 トニーミズタニヨシオ