あのう、何というか。2019年8月9日。

2019年8月9日ミズタニ行進曲

あのう、何というか。気になる事、つらつら書きますね。参議院選挙、終わりました。一体いつの話だよ、って言われるかもしれませんが、つい最近の話です。あ、今は2019年8月9日もうすぐ午前10時です。参議院選挙は7月21日にありました。投票率が48.8%でこれまでで二番目に低かったと聞いています。自民党が10議席を減らして負けた選挙でしたが、「自民党敗北」という見出しは目にしませんでした。「過半数維持」「三分の二を割り込む」などという見出しが殆どでした。ちなみに、「改憲勢力」という名目で「三分の二」と言われていますが、連立与党公明党は改憲政党じゃないと思いますよ。公明党も「うちは改憲勢力じゃない」とはっきり言えばいいのにね。言わないよね。恥ずかしいのかな?公明党が改憲に前向きなんて聞いたことないなぁ。いざとなったら改憲に賛成してしまうのだろうけど、その姿勢はスネ夫みたいに私には映るんよね。

でね。参議院選挙は自民党が敗北したけれどそれは大きく聞こえないの。バツが悪いのかな。野党の躍進を挙げるなら山本太郎氏が率いた「れいわ新選組」でしょう。比例区の得票数で山本氏1人が99万票も集めてしまった。東京選挙区で丸川珠代氏が114万票獲得した数字には及ばなかったけれど、全国比例での99万2267票は日本維新の会が比例区で獲得した総票数68万9387票より多いんだよ。山本氏は落選したのだけど、選挙で示した影響力は計り知れない。選挙前には地上波にほとんど露出がなかったけれど、選挙後に山本氏を叩く著名人たちの登場も手伝って、パラパラと登場していると聞いています。

選挙の話がしたいのか?いやいや。選挙は終わると祭りが終わったかのように話題がしぼむ。選挙でのれいわの躍進よりも「NHKをぶっ壊す」をよく取り上げるのは、本質的な議論や政策に関心を持ってもらっては困るからだと私は見ています。選挙そのもので自民党の敗北、山本氏の得票数、そういうムーブメントは政権にしてみれば打撃になりかねない。「N国党」を面白がってメディアが取り上げてくれたら、選挙の総括はブレて静かに済んでいく。N国党の立花氏が政見放送で連呼していた「不倫、路上、カーセックス」というフレーズからも「注目を集めることで支持があるように演出をする」という手法は、バラエティー番組の視聴率獲得と構造的には同じに映る。「人の関心がなければ始まらない」という論理に多くの人は「その通りだ」と頷く。「関心を集める」という事がいつからか、経済的に商売的にも、インスタ的にも、国家的にも、日常的にも、メディア的にも、ニュースとしても、学術にしても、芸術にしても、何においても重要になっている。

 「関心を集める」という身近な理解は「いいね!」の獲得数だろうか。またはフォロワー数だろうか。私たちはいつからか、「関心を集める奴隷」のようになった。インターネットの発達とスマホの普及によって個人が世界へ発信できる機会に恵まれた。発信すると受信されることを念頭に置く。送受信の関係は依存関係になりやすい。自身の影響力に関心が高まり、結果として広告収入などで潤う暮らしぶりにも関心が湧く。始まりはネット掲示板のようなまとめサイトだったが、より簡易なTwitterやFacebook、Instagramなどに集約されていった。YouTubeは個人の発信力に独立性と独創性を与えたことで、ユーチューバーを生み出している。私たちは関心を集める奴隷になった。自ら進んで手段を選んでいるように思っている多くの人が、選ばざるを得ない関係と環境に引きずり込まれている。無関心で通すことは難しい。無関心で通せなくなる。これを政治的に利用することを「プロパガンダ」という。

 先日、「あいちトリエンナーレ」で開催されていた「表現の不自由展」は始まって4日目に中止になった。発端は大阪市長の松井氏が名古屋市長の河村氏に「一体どういう展示だ」と尋ねたことによる。河村氏は「慰安婦像の展示は行政補助を受けた展示にふさわしくない」と県知事に向け「展示の中止」を公文書で申し入れた。この動きに同調した嫌韓論者たちが「ワッ」とネットなどで書き込みを始める。その中に美術館への脅迫も生じ、中止に追い込まれた。テロ予告とも取れる内容に行政は従った。大村愛知県知事は「憲法21条に違反する」と河村氏を非難。河村氏は「だったら続けたらいいじゃないか」と発言。テロ予告や脅迫についての非難は強くせずに、自身の違憲可能性に対してのみ敵意をむき出しにした。

 少女の像が政治的思惟を含んでいたとして、その展示が見る人を不快にさせると言って、機会そのものをなくしてしまったことは非常にむごいことである。慰安婦問題と昭和天皇肖像焼却映像。最近、韓国と問題化している日清・日露、日中戦争からの太平洋戦争、第二次世界大戦に至る歴史認識問題が根底にはある。つまりは、政治的にデリケートな展示で、テロ予告もあるし、トラブルが大きくなるから中止が妥当と判断されてしまった。展示内容に腹を立てて暴力(言論を含む)を振るう事に寛容であるような行政の首長らの発言は危険を増幅させた。展示物が結果として争いを生む「暴力装置」であるようなレッテルを貼られた。芸術性の有無が議論されているフリもあった。私たちは考えなくてはならない。あの少女の像がどうしたら政治的思惟を含むのかを。「ムッソリーニ、ヒトラー、ヒロヒト」と世界は見ていた史実を。

 自民党のある議員が「展示はプロパガンダだ」と非難した。その発言こそ、プロパガンダというのだ。韓国を非難することが是であるかのような恣意を含めた批判を与党議員がする恐ろしさ。維新の会の議員も首長も同様だ。ぎくしゃくしている日韓関係に拍車をかけるような発言が政治的に行われている。プロパガンダとはこういう事を言うのである。無関心でいられずに巻き込まれてゆきもする。芸能人も同様に韓国への間接的な非難を繰り返す。政治的思惟を含めて刷り込みをする。一体、いまは何年だ。1930年代なのか。過去に政府は慰安婦問題に謝罪している。河野談話もそうだ。安部氏も間接的に謝罪している。展示が中止になった成果を喜んでどうするというのか。溜飲を下げるような仕打ちを何か受けてきたというのだろうか。

 韓国とのぎくしゃくを政治的に利用して、内政の失策を反省しない政権。権力の乱用を容認する政権支持層。あわよくば、その権力を傘にして一山当てようと目論む人々。お上の言うままになっておけば安泰だと信じる自由から逃走した人々。芸人も芸能人も、テレビ報道もネットニュースも、ヤフーのコメント欄も、どうしてこんなにも偏ってしまったのか。きっと、私なんかよりその現場にいる人の方がもっとやり切れない思いのはずだ。テレビも、芸能も、報道も、コメント欄を見る人も、どうしてこんなことになっているのかと考える人たちがいるはずだ。どうすればそういう人たちと繋がれるだろうか。

私たちは多くの場合、叩かれまいと暮らす。政治的にならず、波風立てず、評価は良い方にだけされたいから投稿は食事とイベント、タピオカで溢れる。悪くない。そういう牧歌的で何でもないことが一番でもある。しかしその内に、プロパガンダは成果を上げつつある。N国党の話題や、展示の中止や、進次郎氏の結婚会見を首相官邸で行う事、この一週間を振り返ってもこんなにある。そしてこれらは、忘れ去られていく。刷り込みを果たして、印象操作を果たして、レッテル張りを果たして、成果だけを潜在的に残して現象を忘れる。牧歌的な投稿を心がけて関心を集める作業に勤しむ。関心を集められることが物事の尺度になって、倫理の判定になって、正しさとはまず関心を集める事のようになって、そして疲れて諦める。

いつしか刷り込まれた印象やレッテルは簡単に修正も修復もできない。ダイエットのようなのだ。時間をかけて太る。直ぐに落ちない。無理なダイエットにリバウンドもリスクもあるように、刷り込みはきちんとした理解を重ねなくては解けない。無理やりに刷り込みを直そうとすると洗脳になりカルト化してしまう。だからこそ、日常での関心のあり方は重要なのだ。できるなら、身近な人と「不思議に思うこと」「おかしいなと感じること」を話してみてください。

面倒くさい?

まぁ、それもそうか。

タピオカでも買って投稿しようかな。