映画「新聞記者」を観て。

2019年7月8日ミズタニ行進曲

2019年7月8日 月曜日。映画「新聞記者」を観た。日本の諜報機関が情報操作に関与する内容の映画だ。ジャーナリストの信念と、官僚の抱える理念が「真実」という課題を問う。映画の細部や構成はネタバレになるので割愛する。しかしながら、この映画の重要さは表示できるはずなので、映画を観た感想をつづりたい。

この映画は「権力」「国の体制」「民主主義」について鋭い眼差しを向けている。「権力」とは、社会的に何かしらの強制力を持つことを言う。強制力は制度を背景にしたり、経済力だったり、所属の序列だったり、カリスマ性だったりが持つ「圧力の成果」と言っていい。また、その理解の浸透とも言える。権力者が自身のもつ権力をふるう時、自身の意に添った現象や関係を維持創設する。その際、意にそぐわない対象は弾圧か排除か阻害などを受ける。権力は人間の欲求を実現させる事から、多くの人にとって魅力的である。それを、そこかしこに見て取れる。同時に、権力の行使は倫理観に抵触する場合が多い。このことからも、権力は魅力的であると同時に批判的な眼差しを受ける責任がある。どの社会においても、権力の行使について人々は敏感でなくてはならない。そうでなければ、権力行使の暴走を止められない。権力行使は、控えて、情緒的に、逡巡とした反省を内包し、最終手段において用いられつつも、行使についての理解を努める義務を負う。権力の一極集中を許してしまうと人間の多様性は保障されず、ユーモアは奪われ、狭い倫理観や強制的に作用する理念による思い込みやファンタジーを生み出す。権力による評価によってのみ自己実現を図ろうとする為に自ら進んで自由を放棄するようになる。思想や思考による社会運動や批判精神は排斥運動の対象になる。「権力」とは、社会的に何かしらの強制力を持つことを、言う。

「国の体制」とは、統治の形式とその保障をいう。国は国境によって他国との境界線が設けられているだけでなく、自国の領土を理解する。この領土内は自国の憲法、法律などによる統治がされている。これを法治国家という。憲法とは、国政府・制度に対する国民の意思と要求である。「こういう国であってほしい」という願いと言っていい。憲法は国の理念であると同時に、国が国民に対して保障する約束事である。国の倫理の根幹と言っていい。法律は生活をする上で私たちが守るべきルールを示している。個々人がそれを遵守することで日常の倫理も安心も、安定と平穏が約束される。法律は国民の代表選出によって選ばれた国会議員によって作られる。国民の代表が法律を作るのは、法律が私たちの生活に密接であることによる。似たような政治思想を持つ国会議員によってグループが構成されている。これを政党という。いくつかの政党により政治指針が表明されて国会の場で法律が議論される。これを政党政治という。より多くの政党議員を持つことで、その政党の意思は法律となる。多くの政党議員を持つということは、多くの国民がその政党を支持しているという解釈でもある。ゆえに、国民の意思が反映されて法律が作られているとみなされる。この方法を「議会制民主主義」という。

選挙により選出された国会議員によって国会で法律が作られる。これを「立法」という。他に、法律に沿って政策を実行する「行政」。その法理の違反を罰する「司法」。この三つの権力関係は互いに独立運営している。これを「三権分立」という。国会で法律を決める力を持つ政党を「与党」、それ以外を「野党」と呼ぶ。また、行政府の長を内閣総理大臣(通称 首相)という。与党の党首が首相になっているのは、「内閣総理大臣」を決めるのは国会議員による多数決だからだ。これを議院内閣制という。立法と行政が協力関係を築き運営を円滑にできるメリットがある半面、首相の権限が強くなりすぎて立法への干渉を生み出す権力構造を作りやすくする。首相の在任が長くなればなるほど、その体制は権力行使へのハードルが下がる。長期政権は国の体制に安定感をもたらす一方、国民に権力行使への寛大さを突き付ける。促したり、働きかけたり、という優しいものではない。国の体制の重要性を経済発展の成果をもとに表示し、「貧乏は嫌だろう。働き方も暮らしも国防も、我々にしかコントロールはできないのだ」と言って突き付ける。「少しの権力行使は大目に見ろよ。君たち国民だって、誠実でない場合もあるだろう。そのことについては芸能人たちが説明してくれている」と突き付ける。国の権力行使については思考停止しろと突き付ける。

身勝手な権力行使を止めるために国民の眼差しは必須である。

私は、私たちが日々の暮らしを誠実で倫理的に過ごしていれば、権力者は迂闊に権力行使ができなくなるのではないかと考える。国は国民の堕落や非倫理的な感情をよく見抜いている。「同じ穴のムジナであれば理解し合える」と言いたげだ。違う。断じて、違う。国家の堕落と国民生活の堕落は同質ではない。権力の有無からしても同質ではない。私たちは日々を倫理的に生きるからこそ、その対価として誠実な報酬を獲得できると信じている。社会とはそうした安定が保障されるべきである。「まじめに働いても正当な報酬はうけとれない」などとそそのかす言説を耳にしても、自分を信じて疑ってほしい。正当な報酬が受け取れないのは本人に問題があるのではなく、正当な報酬を支払わない側にこそある。倫理観を軽視して日常を過ごせば、権力行使に対する眼差しは働きにくくなってしまう。些細なことで自身の倫理観が揺らいでも、また日常でそれを回復させるために更生すればいい。私たちは間違えるが、更生もできる。日々の誠実さだけが、周囲の人々の信頼を集める。その結晶は権力者の迂闊を終わらせるはずだ。私たちはいつからか、私たちが起こす日々の些細な逸脱と権力者の逸脱とを同じように考えさせられている。私たちの些細な逸脱は、私たちで処理できるはずである。厳しく突き付けられた権力行使への寛大さ要求によって奪われたユーモアを取り戻さねばならない。

「ユーモアを取り戻そう。」

イルピアットのスローガンだ。私たちはユーモアを奪われた。長きにわたる「思考停止してくれよ」という国への不干渉要求は、私たちの日常へ知らない間に広がりを見せた。その結果、周囲の些細な逸脱に目くじらを立てる。お互いにインターネットの中で潰しあう。情報操作がされたニュースを読み、印象操作を容認する。芸能人のスキャンダルが傘になり、本来追求すべき問題はなかったかのように過ぎてゆく。首相が芸能人と懇話している姿を流布し、権力への眼差しをごまかす。権力者への忖度を容認させ、へりくだる。国会は?行政は?司法は?官僚は?ジャーナリズムは?メディアは?私たちは「難しいことはよく分からないから」と諦めさせられている。決して、難しくない。私たちが日々を丁寧に、美意識を持って、過ごせばいいのだ。それが倫理的である証明だし、誠実さを表象する行為である。私たちは権力行使についてもっと敏感であるべきだ。

やっと映画の感想だ。ふう。「新聞記者」は国の制度を考える官僚と権力、ジャーナリズムを通して「考えること」をメッセージに込めた作品です。作品はフィクションです。ですが、散りばめられた倫理観への問いかけはノンフィクションです。私が一番ゾッとしたのは「この国の民衆主義は形だけでいい」という一言。すごい言葉です。是非とも観てください。