「私たちは、レストランです」

2021年12月6日お知らせ

「私たちはレストランです」

イルピアット紙屋川 トニー・ミズタニ・ヨシオ

 「どうして飲食店ばかりが悪者扱いされなくちゃならないんだ。」

 そんな声を繰り返し耳にした2021年。2020年12月からジワリとはじまった営業時間制限や酒類提供制限は、飲食店主たちの気持ちを無配慮にいじめた。新型コロナウィルス「covit19」は、変異を繰り返しても感染力や毒性が弱毒化せずに感染を拡大させてきました。その感染活動が盛んに行われる場として、ライブハウスや飲食店が指摘されました。背景には、それらの施設でクラスター感染が度々確認されたことがあります。

 飲食店ではお酒を飲むと気が大きくなり、シラフなら機能した感染予防意識が飛ぶことを指摘されました。宴会はもとより、性対象が優しく濃密に接してくれる機会などは快楽的な喜びによってひと時、感染事象などは無いものの様に振舞われました。感染者が増加することと並行して、一部のそうした破廉恥は冷たい眼差しをしっかりと醸成しました。冷たい眼差しの醸成は、世間の声と意識にまで変化してゆきます。

 世間の雰囲気を感じ取る政治と、医療現場で実際に巻き起こった医療のひっ迫が「行動制限」へと舵を切る決定打になります。その航路決定に対象施設関係者以外の反対意見は見つけられませんでした。現行法範囲内での行動制限が「協力要請」という文脈から始まります。その要請には当初、罰則などはありませんでした。このことから「お願いベース」と言われました。このお願いに応えると漏れなく「協力金」が支給される仕組みでした。

 協力金は非常に魅力的でした。私のお店・イルピアット紙屋川くらいの規模にとっては充分な補償です。しかし私の店舗より大きなお店にとっては足らない補償のように思いました。この事は各飲食店の掲げるチャームにも因るので一概に言えませんが、1日の売り上げが7万円程までで運営できる飲食店にとっては、充分な補償だったと思います。協力金はずっと同額ではなくて、制限の内容や見直しによって変化しました。地域によっても金額は違います。

こうした内容を明らかにすると同業者からは嫌われますが、飲食業以外の方からは「飲食店ばかり槍玉になって大変だね」と多く声を頂いたので、恐らく事情はよく知られてないのだなと思います。飲食店にかかってきた制限は辛いものでした。この事は協力金を受け取れるからと言って慰められるものではありません。ですが、潤沢に補償を受けた事もまた事実です。制限の協力要請に応えずに通常営業を続けた飲食店は補償されていませんので、結果的に獲得した金額の差異などを私は理解していません。飲食店同士は、補償の有無を軸に複雑な関係に放り込まれたことは確かでした。

感染防止対策を多くの人が取り組む中で、通常営業を続けるお店には厳しい眼差しと偏見が寄せられました。「社会のルールを守れない店だ」「二度と利用しない」「わがままで自分勝手な店だ」「自分さえ良ければいいと考えているに違いない」「感染源になるに決まってる」などの声を、私は実際に聴きました。「潰れればいい」という声さえありました。この事は特別なことではなく、皆さんの周りにもそうした声はあったのではないでしょうか。

感染拡大を阻止する取り組みに多くの人が共感し実行する中で、感染防止に関心のない人が一部いたことは事実です。「感染防止に関心がない人」、「感染予防対策は意味がないと考える人」、「ウィルスは存在しないと考える人」、「コロナ禍は陰謀だと信じる人」、「自分だけは大丈夫だと思う人」、「風邪はかかる時にはかかるから仕方がないと考える人(だから予防しない人)」、「死ぬ時は死ぬのだから(予防対策をしても死ぬのだから)仕方ないと考える人」など、感染予防対策や感染防止、感染現象に取り組まない人は様々います。

「飲食店の営業制限がそのまま感染予防対策」と設定されたことで、「守る・守らない」という眼差しを生み出しました。「応じる・応じない」というこちら側に委ねられた印象とは異なる厳しい眼差しです。要請に応じない飲食店の補償はされず、世間からの厳しい眼差しにも晒されます。とてもではないですが、私には要請に応じる選択しかありませんでした。感染予防対策を講じるかどうかは問題ではなく、「補償もなく厳しい眼差しに晒される」ことは困難です。

この事からも分かるように、飲食店への眼差しは「感染予防対策を講じること」と「制限を受け入れること」を監視する働きを持ちました。まさに「誠意」を確認する仕組みです。「監視する働き」は「期待する働き」とは違います。協力要請は「期待する働き」のはずでしたが、政府が行政罰による過料徴収を打ち出したことでより強い眼差し効果の「監視」は公認されました。「要請に応じてない店がある」という通報もハードルが低くなりました。「通報があったので要請に応じてもらえませんか」と行政機関から店舗への連絡も入りました。店舗へ直接、苦情として連絡が入る事も珍しくはなかったと聞いています。

 このように書くと、「協力金も受け取れて、厳しい監視にも置かれない為にも、要請に応じることが最善である」と完結しそうです。実際にそうなのですが、それは「自分の身を守るため」の選択だと思うのです。私はこの点について非常に注目してきました。感染予防対策が社会にとって重要なものであることは疑いません。その重要性の理解は個々人の倫理観や常識に委ねられてきました。教養の有無や日常の丁寧さ、他者に対する配慮や自分の社会的な役割について考える時、予定調和を図るものです。

 飲食店に課せられた協力要請は、「協力金の可否と世間の監視がセット」になりました。「営業制限」は「踏み絵」として機能しました。この構造にはこれまで人類の歴史が抱えてきた後ろ暗い闇が潜んでいます。個々人が主体的に図る予定調和とは違う構造です。飲食店への社会的監視構造は弾圧を想起させました。政治が直接手を下さずに社会の雰囲気を醸成する形で制限を作り出す構造には、分断を生み出す性質が強く含まれます。

 「あの店はルールを守らず、自分だけ儲けてやがる。」

 予定調和を図れない人との関りは敬遠されがちです。粗暴な人や、態度が横柄な人、他者への配慮がなく「俺の言うことを聞け」と言わんばかりの人などは付き合いにくいものです。争いが絶えず、厄介です。多くの時間を事件と問題に絡め取られてしまいます。「平穏」はこの真逆にあり、争いをいかに遠ざけるかを考えます。多くの人は常識的に過ごしています。そして多くの場合、常識かどうかなどを考える必要がないほどに平穏です。些細なイライラはどこにでも見受けられますが、日常において「常識を考える機会」は驚くほど少ないはずです。

 根本的な話をすれば、「コロナ禍なんてなかったら」というファンタジーになりますが、現実的にはもう起きてしまいました。ですから、「たら・れば」の話はファンタジーです。苦難を乗り越える時、想像力を働かせて人はファンタジーになるものです。「もしかしたら」という期待などはその一端です。起きている事の意味が分からない時は、その意味に脚色して陰謀論も生まれます。人は平穏において、その連続する日常を謳歌しますから、ギフトが届くような非日常でなければ暗くならないものです。陰謀論は暗い非日常を重く受け止める気持ちだと私は解釈しています。

 行政からの協力要請は飲食店に「踏み絵」を課しました。世間の厳しい眼差しを醸成させ、協力要請に応じるように迫りました。「常識的」に考えれば「みんなが不安に思っていて、医療も大変で、早く感染を収束させるためにも協力する事が当たり前」だという事になります。私も同意見です。しかし同時に、協力要請に応じると仕事にならない飲食店がある事も事実です。それを補償するために協力金が設定されました。細かく言えば、雇用調整助成金なども拡充されました。「制限と補償はセット」という言葉を皆さんも聞いたと思います。

 「常識的に考えた結果、制限と補償はセット」であることが分かります。かかる制限は飲食店が対象なので、飲食店を軸に社会的な制限は語られるようになりました。常識的な人々は政府の要請を「常識的なもの」として解釈しました。「制限と補償はセット」という言葉もキャンペーンに使われました。先にも言いましたが、日々の中で常識を考える機会は殆どなかったのですが、このキャンペーンによって飲食店への制限は広く認識されてゆきました。

 常識を判定する基準に感染予防対策が設定されました。初めはどう対応してよいか不安になった人もいたはずです。「自分はどう振舞えばいいのか」と常識を再定義しなくてはならない場合もあったと思います。大げさに聞こえるかも知れませんが、今は当たり前になった「アルコール消毒」「検温」「マスクの着用」「ソーシャルディスタンス」などの意識と行為は、日常的になるまでに右往左往としたものです。そして徐々に、設定された常識を内面化し日常にしました。これが「新しい日常」「新しい生活様式」です。

 新しい常識が浸透すると、「できてない人を見分けること」が容易になりました。「あの人はマスクを着用していない」などの意識は電車内で事件に発展し、電車の運行を非常ボタンで停めることもありました。人々の気持ちは徐々に常識を内面化しながら、予定調和を図る事が「ややこしくない人」として認識されてゆきます。先ほど、「予定調和を図れない人は敬遠されがち」と言いましたが、同じ構造です。

 「感染予防対策程度のこともできないなんて、きっと面倒くさい人だ」という意識は社会で共有され予定調和になってゆきます。この予定調和は飲食店への監視の醸成にも貢献します(断っておきますが、私は常識的な人間なので(笑)私の意識もこの監視に加担していたことを認めます。「弾圧を想起させる」という事も「私はそれに気付いたから加担してない」などと言うつもりは全くありません。問題は単純ではないのです)。厳しさを増す眼差しを感じ取り、ファンタジーが支持を集めます。「これは誰も悪くない。陰謀なんだ」と解釈する事で、「弾圧の想起」という重たさから逃れようという気持ちが生まれます。陰謀論者たちは巨悪の存在を設定します。そしてその巨悪によって「私たちは全て巻き込まれているだけなのだ。世界を救済しなくてはならない」と使命感を芽生えさせて共有し、行動を起こしています。

 社会はきちんと決まった構造で作られていません。ですから、予定調和が生まれても100%の共有・認識などありません。あくまでも「予定」なのです。そして「調和」も難しいバランスであることを示しています。「常識」もそうです。その時々によって常識はころころと変わります。倫理観も、善悪も、時代や現象によって再定義されてきています。しかしコロナ禍における常識は、感染予防対策であることは疑いありません。この常識はコロナ禍で特に有効なものです。日々、常識を考えなくても済んでいたのに些細な行為が調和を乱すのではないかという疑心暗鬼と緊張感は、社会に強いストレス作用になりました。

 飲食店同士を見てみると「あの店は闇営業(制限を守っているフリをして守らず営業する事)をしている」、「あの店は感染予防対策も営業制限もしていない」などの不満がくすぶり始めます。「自分の店舗はきちんと制限も守り、感染予防対策も講じているのにあの店はしていない。腹が立つ」などの声も聞きました。「あの店はルールも守らず、自分だけ儲けてやがる」という不満は飲食店同士の分断を生みました。「まじめにする事がバカを見る」と言う店主もいました。しかし、果たしてそうでしょうか。

 「レストランは社会的インフラである。世界に色があるように、レストランがある」

 私は先にも言いましたが、「自分の身を守るため」に協力要請に応じてきました。社会で醸成された予定調和に加担しつつも、仕事にかかる制限を受け入れて理解する事は簡単ではありません。ですが、「協力金の可否と世間の監視による恐怖」があり、応じてきました。他店がどうしようと、私にはどうしようもない事です。むしろ、私が抱く恐怖をものともしないでいられる飲食店の強さを圧巻だとさえ思うことがありました。仲の良い飲食店主にも要請に応じていない人は何人もいました。私は心配になる事はありましたが、「非常識だから付き合わない」という気持ちにはなりませんでした。

 飲食店同士がいがみ合う気持ちを抱き、分断が生まれました。コロナ禍で醸成された常識を内面化して作られた正義には大義名分があるかのように、「自粛警察」なるものも出現しました。コロナ禍で醸成された予定調和は主体的なものではなく、政府からの要請に基づいて作られた規律と言っていいでしょう。人々は強制されていない雰囲気で何となく応じつつ予定調和を作り出しましたが、雰囲気を下支えしたのは政府の意思でした。

コロナ禍で醸成された予定調和という規律と常識。それを新しい日常として実践する暮らし。自分の意思で協力要請に応じ、協力金の補償も受けつつ「飲食店は大変だね」という労いさえもらう。飲食店の実情は千差万別に違いないのですが、「私は恵まれていると思っているけれど」、といつも引っ掛かりました。社会全体に強いストレスがかかり、おかしな監視と緊張感が漂うようになってしまいました。

 協力金を受給しても立ち行かない飲食店にとっては地獄です。コロナ禍による業界縛りは地獄の責めです。世間からの眼差しを気にしながら要請に応じても、何も上手くいかない。協力金の対象からこぼれ落ちる飲食店も同じでした。営業時間が20時までの飲食店の多くは休業要請でもなければ、協力金の支給はありませんでした。外食そのものが敬遠されたことで、利用する人の数は激減しました。感染予防対策がしっかりされていようとも、外食する気分そのものが盛り上がりません。飲食店はお客さまを待つばかりで、どんどん続ける気力を失ってゆきました。

 私たち飲食店は、利用する人々の日常の健全さを補う役割を持っています。空腹を満たす以外に、食事の時間による気分転換や快適さの提案、文化的な交わりのきっかけだったり、社交場としての安心感。「食事」には日常を支える要素がたくさんあります。レストランは社会的インフラだと自覚しています。人々の日常に刺激を用意し、空腹を満たし、交流の場を提供する。私はレストランのない世界は色を失った世界と同じだと考えています。

 今回の制限でレストランは少しだけ色褪せました。自宅での食事が習慣化した事で、「これでいいじゃないか」と考えた人も増えたはずです。私は自宅での食事が増えたことは良かったと思っています。このこと自体、私たちのマーケットを縮小させることにはなりません。なぜなら、レストランは自宅の食事とは違う価値を持つからです。食事にはいろいろな要素があっていい。レストランは先に述べた通り、自宅では獲得できない価値があると確信しています。自宅での団らんはとても重要です。その団らんがレストランを色褪せさせたのではありません。色褪せさせたのは、行動制限による日常の色彩の単純化のせいです。

 単純化された日常を再定義しなくてはなりません。これはそのまま、レストランの再定義になると考えています。私は自分のレストランを再定義しようと思います。イルピアット紙屋川の価値と意味を再定義するいい機会です。なぜ、レストランを作ったのか。なぜ、イタリアンなのか。私自身、なぜ調理なのか。ガラス張りにした意味は。オープンカウンターにしたのはなぜ。一周回ってこれまでと同じ答えでも構わないのです。色彩の単純化を疑う私は、同じ答えになろうとも一度それを疑いたい。

 「レストランの再定義は、未来の設計と等しい」

 コロナ禍は人々の気持ちをザラつかせました。同時に、自分にとって何が大切なのかも突き付けました。そのことで、要らないものも分かったのではないでしょうか。その感覚は大切にするべきだと思います。そして、再定義した日常の容量を活用したいと思います。思いの外、大切なことは分かり易いところにあるものです。私はレストランを軸に社会を見ています。色んな人が集い、様々な出来事が巻き起こる場所。社会の縮図と言っても過言ではありません。その再定義は社会の再定義と等しい。その再定義は未来を作るはずです。

 レストランの再定義として、利用する人の快適さへのアプローチを見直すことがあります。これまでは席数と売り上げと回転率、客単価という事を見える化することからの目標設定でした。コロナ禍の制限によりこれらはすっかりと打ち砕かれました。この経験は多くの料理人にとってショックだったと思います。自分の成果を計る基準値が変化したのです。しかし最後に残ったものは「料理」だったと思うのです。私たちは調理まで奪われていない。この純粋な本質がレストランの再定義の第一歩だと思うのです。

 私は調理ができればまず、良いです。次に、その料理をどのように提供するのかが問われます。制限下で経験した様々な形態の提供方法は、これまでのこだわりを変革させました。修行時代を思い出しましたし、他店のアイデアも参考になりました。利用する方との繋がり方も多様性があると知りました。ひとつずつ静かに変化をする中でも「立っていられるかもしれない」と感じたある時、「調理を信じてゆこう」と思うことが出来ました。自分のためだけに調理してきたこれまでとは違う定義付けです。考えることは結果として同じなのですが、出発点が「何のための調理か」という点が重要です。

 私のレストランはコロナ禍以前は二部制を採用していました。17時か20時をお客様に指定いただき、利用時間の制限を設けていました。コロナ禍ですっかりとその制限は消えました。この事は今後もこのままかと思います。ご利用される方の快適さは制限をなくす事で向上したものと思います。日常の制限に疲れた人々にレストランが更に制限を設けるなんて考えられません。私のレストランは感染予防対策の認証店舗を取っています。この認証店舗制度の予防対策は今も(2021年12月7日現在)続いています。しかし、認証店を取る際の調査でやり取りした理不尽さは採用していません。

 認証店に合致しているかを調査した職員は言いました。「ここは1mありません」。私は耳を疑いました。「1m以上設けることは出来ますか」と聞いてくれたらいいのに。「お客さんに提供するワインは店員の方が触るだけにするか、利用者の代表を決めて利用するように注意してください」とも言われました。私はこのやり取りが今でも許せない。日常の制限を耐え凌ぎ、やっと辿り着いたワインひとつ利用する時に制限を設ける意味が分からない。私は調査員に言いました。「あなたたちは自宅でもそのようにしているのですか。行政の職員の全てはそれを周知しているのですか。地方議員も国会議員もすべからくその様に行動しているという前提ですか。規範やモデルになるべき人々もその制限を実践できているという事ですか」と。

 調査員は黙りました。私は続けました。「これまでどれだけの制限をお店もお客さまもしてきたと思ってますか。その先にやっと辿り着いたワインに「触るな」と私が注意するのですか。本当ですか。それは本当に感染予防対策ですか。具体的に、論理的に、私に分かるように説明してください」。調査員は黙ったままです。「こんな制限をいつまで続ければいいのかご存じですか。「ワインに触っても良い」といつ言えるんですか」。すると調査員は「事務局に尋ねます」と言いました。馬鹿馬鹿しい。そんなもの、その時点で分かるはずがないのです。結果「分からないそうです」と言います。

 感染予防対策と行動制限によって社会に醸成された「眼差し」の背景はここにもありました。しかしこれは論理的にもおかしな事です。私たちレストランが悪者であるような前提で調査をするのは全くおかしいのです。この厳しさは「感染者が悪い」という印象を与えます。そして「感染させるきっかけになった飲食店はヤバい」という雰囲気を支持します。私は怒り心頭になり、声を荒げました。調査員は何の説明もできないのです。説明もできないそういう態度に我々は振り回されてきました。こんな事はもうあってはなりません。

 レストランを再定義するならば、「社会の倫理と価値に寄り添って存在している社交場」であると言いたいです。私たちの殆どがそのように努めてきました。そして、協力に応じなかった飲食店も悩みながら模索してきました。自分たちが社会にどのように求められているのか。社会にいる人々は同じ性質ではありません。同じように、呼応するように、様々な性質の飲食店があります。結論からすれば、感染拡大を防ぐ事は最優先でした。非常に難しい事柄でした。こうした色々を嘲笑うかのように感染者数は激減しました。しかし実のところ、なぜ感染者数が激減したのかは分かっていません。

 政府・行政は言います。「皆さんの協力のおかげです」と。これは労いと慰めの言葉であり、論理的に解明されたものではありませんでした。制限協力に応じてきた飲食店も、そうでなかった飲食店も、具体的な理由が分からない釈然とした中で制限は解除されました。2021年11月は制限がすっかりとなくなりました。久しぶりの日常。通常営業。お酒も飲める。利用人数制限や感染予防対策はありましたが、上手くこなしながら多くの人がレストランなどを楽しんだ時間でした。制限が解消された直後は賑やかでした。

 「料理を信じる思想と社会的インフラである矜持こそ、食の本質である」

 制限がなくなってすっかりと以前のようになったかと言えば、そうではありません。夜の遅い時間のご利用は消し飛びました。季節が気温を下げたこともありますが、それ以上に、レストランに求める価値の変化が生まれたのだと思います。静かな営業日も増えました。準備を整えて待ち構える私たちの気持ちを挫けさせるには充分な暇。制限があった時は「制限のせい」にできました。制限がなくなり、何かにその理由を求めにくくなりました。「本当に辛いのはこれからだ」。そう話す店主もいました。現実はまさに、そうなのです。

 ここで挫けてはなりません。だからこそ、個々人が自分を再定義して、飲食業界を再定義して、レストランを再定義して、可能な範囲を確実に摘む必要があります。この理解と挑戦こそが、本当の意味でのコロナ禍の克服に繋がると思います。私たちには(繰り返しになりますが)料理があります。技術もあります。支持をくださったお客さまも多く見えます。その経験を誇りにすべきです。私の技術は高等でも、高級でも、一流でもありません。この場合、そういうレベル的な事は重要ではありません。「料理を信じる」という思想の共通があればいいと思います。

 私たちはこの先も社会において、矢面にさらされるかも知れません。思いもよらず、最前線に押し出されてしまうかも知れません。それでも。作りましょう。料理を。それを食事してくださる皆さんが口にする言葉が「美味しい」「満足」「ありがとう」と聴こえて来るならば、私たちは立っていられるはずです。再定義された社会にこそ、変わらない価値を持って挑む意味があります。食べる本質が変わらない限り、私たちの役割はそこにあります。レストランは社会的インフラです。どんなに社会がガタガタなっても作りましょう。

 11月27日の朝刊に「南アフリカで新変異ウィルス・オミクロン検出」という記事が踊りました。11月30日には日本国内(成田空港)でオミクロンが初確認されました。12月6日には羽田空港を利用した人から3例目の確認がされた報道がありました。国内の感染者数は欧米や韓国のように急増していません。未だ、少ないままです。ですが政府は第六波に備えた対策を矢継ぎ早に打っています。感染者数激減の理由は分かっていませんが、増加する仕組みは共通しているので予防対策は有効なのだと思います。第六波が来るという雰囲気は人々を暗くします。ですが、感染予防対策の理解がある事はアドバンテージだと思います。過度に恐れず、今の日常を過ごすことが重要だと思います。

 第何波が来ようとも料理を作ろうと思います。作れない期間があっても、作れるようになるまで諦めない。多くの料理人たちはこう思っているはずです。「私が作らなくて、誰が作るのか」と。私も同感です。社会はこの先にも大きなうねりが押し寄せることと思います。それでも、私たちはレストランでありたい。できることを、できる範囲で。皆さんの食事をご用意します。どうぞ召し上がってください。あ。お代金は頂戴します。大切な日常を支えるインフラです。私たちはレストランです。皆さんのご利用をお待ちしています。