暮らしぶりの選択について。

2013年10月7日手記

今はかの子が寝ていて少し時間ができそうなので、文章を書こうと思います。

朝からの営業になって1ヶ月が過ぎようとしています。朝4:40に起床する日常にも慣れました。夜の営業時に見ていた景色と世界は、すっかり変わりしました。それでもやはり、人間は適応できるものです。どういう状況・環境であっても、人は自身の一番快適なラインを探す生き物だと思います。

私は今の営業形態を選択して所得が激減しました。それは予期していた事なので、嫁さんには数か月前から働きに出てもらっています。共働きで何とか生活できる水準です。どちらか一方が倒れれば、私たちの生活は破綻してしまいます。私は個人事業主という事もあり、社会的な保障は何もありません。現行の制度の中で個人事業主というのは、「勝手にやっているから保障対象外」として扱われています。雇用保険も労災保険も何もありません。フルハップに加入するくらいしかありません。
一般的に所得が激減するような選択をできるのは、元来の資産家か、宝くじに当たったか、貯蓄が潤沢にあるかというくらいでしょうか。経済的なゆとりも無いのに、所得が激減するような選択は(個人的には)お勧めできるものではありません。経済的な充足を得ようと人は働きます。経済的な充足は暮らしぶりを保障してくれます。暮らしぶりに保障があると、人は選択肢が増えると考えており、また、それは自由度が高まることだと理解しています。つまり、経済的な充足は自身の意思を実現しやすくなると捉えていると言えます。
そうした理解も原理もその通りだと私は知っています。これはファンタジーでも物語でもなく、そういう仕組みと言えます。人間の社会はそのような仕組みを作ってきました。お金を多く持つ者には自由度があり、自身の意思を実現させられる。地球上で経済を活用している全ての文明に共通する認識だと思います。経済活動は、個人ではたどり着けない領域を条件次第で提供してくれます(自力でイタリアには行けないでしょう?)。
繰り返しになりますが、暮らしを保障するためにはお金が必要です。しかし私は今回、その保障を減らす選択をしました。嫁さんは私の提案に載ってくれましたが、不安があることを私はよく理解しています。私には潤沢な資産がありませんし、貯蓄も僅かです。果たして、本当に良い選択かどうか。経済活動を中心に生きることを考えれば、この選択は間違いと言えます。私が経済活動を中心にし、嫁さんが家事・育児を中心にする方が良いのではないか。
一般的にはこうした役割分担で、それぞれがそれぞれに納得して向き合うのだと思います。しかし私には、そうした役割分担で暮らしてゆけるビジョンを描き切ることが出来ませんでした。どうしても、いまのかの子と向き合っておきたいと考えました。この事は、実は、よく分からないのです。なぜ、こんな選択を選んでまでそうしたいのかは、よく分からないのです。イルピアットは昨年、これまでで一番ノリが良かった。今年は更に上を見れた筈でした。
経済活動によって支えられている暮らしぶりは、生きるストレスを一時的に解消してくれます。経済活動によって獲得する暮らしぶりのおかげで、欲しいものが買え、行きたい所へ行けたりします。昨日だって、久しぶりに服を買いに行きましたが、昔のようにあっさりと買ったり出来なくなっている自分に気付きます。ユニクロのフリース1990円を悩むことなんて、これまでの私からは想像できないことです。20000円弱のジャケットなんて、一昔前なら「安いじゃないか」と言いながら買ったでしょう。今は値札を見て、そっと戻します。
何が変わったのでしょうか。
よく分かりませんが、自分の事にお金を使うことが少なくなりました。同時に、欲しいものも余りありません。トミカも卒業しました。自由に使えるお金が少なくなったからでしょうか。今の自分の稼ぎからは手を出してはいけないものが増えたのでしょうか。身分不相応な消費だと諦めるようになったからでしょうか。
なぜか、そうではないと思います。

お金の使い方が変わりました。そしてそれは、暮らしの時間が変わったからのようです。朝から活動するようになって、家の食事を担当するようになって、かの子と過ごす時間が増えて、家族とおしゃべりする時間が増えて、自分の時間が極端に減った事によると思います。自分にお金を使うことが激減しました。オシャレに関心が無くなった訳ではありませんが、髪も薄くなってきたし、肌もオッサンみたいになってきたし、そろそろわきまえる時期かなと少し前から思っていました。
暮らしぶりの差異は、人をより経済活動へと駆り立てるものです。その魔法は巧妙に、そして疑いなく社会全体に広くかけられています。「お金があれば何でもできる」というロジックを打ち破ることは困難だと言えます。お金は大体のことを保障してくれます。不思議といつの間にか、お金があると安心できるようになりました。そしてより安心を確実にするために、より働くようになりました。働いて獲得する貨幣の多さが安心の度合いであり、自身の暮らしを規定します。
お金が多くあれば、かの子と一緒にいられますか?
働かなくてもいいくらいお金があれば別ですが、働かなければならないお金のレベルなら、目くそ鼻くそかなと思ったのかもしれません。経済活動と家事労働との役割分担をしてかの子の表情を見られない割りには、それ程満足できる暮らしぶりが手に入らないのならバカバカしいなと思ったのかも知れません。大げさですが、夜営業で獲得できる所得の暮らしぶりも決して贅沢ではなかったので、だったら一緒にいられる方が良いかなと思いました。
私は幸い、自分にお金を使わなくもなりましたし、欲しいと思えるような服もあまり見当たりません。欲しいものと言えばパネライの腕時計くらいですが、それは夜営業を続けていても買える代物ではないのです。結局、欲しいと思うような内容はとんでもなく高い位置にあり、おいそれと手が届きはしないのです。3LDKで120平米くらいのマンションに住みたいとか、コペンをセカンドカーとして所有したいとか、自分の部屋が欲しいとか、ベッドで眠りたいとか、月に一度はちょっと良いホテルで泊まりたいとか、琵琶湖にボートを持っていたいとか、フィンガーマークスや木印で家具を全てオーダーで作りたいとか、これらは夜営業を続けていても手が届かないのです。
きっと夜営業を続けていたなら、いまのかの子に出逢えていません。
かの子は相変わらず八瀬比叡山口駅のホームのベンチで寝ています。もうそろそろ起きてもいいぞ。天気も回復したし。川の音が耳に心地いい。風も爽やかで空も青い。この情景と記憶は時間があれば手に入るものではなくて、自身がどのように暮らしたいのかによるのだと思うのです。お金はあまりありませんが、今はこの時間が、やっぱり一番欲しいのだと私は思っているようです。