人間は更なる合理性へと挑んでゆく生き物である。

2013年11月25日ミズタニ行進曲

今朝、歩いてイルピアットへ向かっている最中に、お父さんと手をつなぎ幼稚園に向かう光景を幾つか見た。それが毎日なのか、月曜日だからかは分からない。しかし見るから、会社員のお父さん達は朝早起きして身支度をした後に家を出ているに違いない。日曜日は家族サービスの人もいるだろうか。月曜日は仕事付き合いも無いので、夜も早く寝られそうである。

ブツブツ思う。

なぜ結婚を選ぶのだろうか。婚姻という制度は個々人のゆとりと自由度を考えるとき、最も選択肢から遠くなるはずである。子供を授かって育てることも、日常の自由と経済的ゆとりは激変する。結婚は慣例的で、これまでもそうしてきたからだろうか。社会を構成し維持するためには必要な仕組みだと思うからだろうか。歴史的に人間が果たしてきた習慣と、社会を維持・形成させるための機能を果たすことは、個人にとってこの上ない生き甲斐となるのだろうか。

私はブツブツ考える。

個々人の抱える欲求は国の制度と相反していると思うことがある。個々人の欲求が国の制度と合致する事は稀のように思う。とすれば、国の持つ制度は個々人に規律を与え、秩序の基盤を生み出すためのものであることが分かる。我々の生活は多くの作業と要求に応えなくては機能しづらくなってきているが、国の制度はしれッとしているように映る。社会の様式は変化してきたが、制度は相変わらず「伝統」という素朴神話を信じている。

日本国政府は「夫婦と子ども二人」という世帯構成を「標準世帯」としている。全体の割合で「夫婦と子ども」の世帯は28%。単身世帯は30%。さらに言えば、子ども二人の世帯はもっと少ない。少子化で子どもが増えない事と、未婚・晩婚の傾向であることが標準世帯を「標準」でなくした。国が国の形を維持するために設定してきた標準はもう存在していない。
( 国立社会保障・人口問題研究所「日本の世帯数の将来推計」(2003(平成15)年10月推計)に基づいて、家族類型別世帯数割合の将来推計を参照 )

先の問いと逆になるが、なぜ結婚を選ばないのだろうか。

2013年の今は、結婚を選ばない人が30%ほどになった。婚姻関係にある人は48%だから、まだまだ婚姻は現象として標準である。しかしこれからは、婚姻制度の利用も減少してゆく試算である。これは単純な年齢別人口比率の変化だけではないと、私は見ている。おそらく、試算よりも婚姻制度の利用者は減少してゆくはずである。結婚を選ばない背景にはやはり、選ぶ意味と価値の変化がある。

朝から出勤して、夜に帰宅して、生活の作業をこなす事を一般的には「暮らし」という。暮らしには働いたり、友人とお茶・お酒を飲みに行ったり、映画を見たり、本を読んだり、買い物をしたり、旅行をしたり、洗濯をしたり、食事をしたり、インターネットをしたりと様々な現象がある。そんな様々な現象の中で、「働くということ」と「家での作業」というのは外せない。言い方を変えれば、この二つがゆとりを持ち快適であれば暮らしも快適である。

働き方はどの時代においても問題になる。賃金が低いと文句を言いながらたくさん働きたくないと言う人もいれば、たくさん働かされて過労死や社会に適応できなくなったりする人もいる。労働時間が長くなればその分、生活作業は劣化してゆく。友人と過ごす時間も減少し、余暇を愉しむことも難しくなる。他方で、賃金が低く労働時間は短いが、財布が寂しい為に暮らしに張りを見出せなくても、やはり生活作業は劣化する。友人と過ごしたり余暇を愉しむ予算がないので、付き合いも細くなる。

では、適度に働いて、適度に所得もあって、適度な快適さを獲得するためにはどうしたらいいのだろうか。

働いていない人間に向けられる「仕事を選んでいる場合か」という侮蔑とも叱咤激励とも取れる眼差しと、働き方を選ばずに頑張った挙句に身体を壊して社会復帰できなくなってしまう危険性と、働いても所得は増えずいつ潰れるかもしれない労働環境と、消費欲求は増大し続け他者との差異に敏感になってしまう繊細さと、国は少子化だから婚姻して子どもを作り育てなさいという要請と、インターネットやSNS上で展開される時間軸を無視したやり取りの緊張感と、それでいて、国の制度に関わる人間から聴こえてくる胡散臭い話と、教育に愛国心を入れるというファンタジーと、増税はするけれども予算組を変えるだけで結局何も痛手を受けない政府関係者たちなんかの、全てに問いたい。

じゃあ、獲得するためにはどうすればいい?

私でさえ、こういうことを考えるのだ。次の世代や今の10代、20代はもっと考えている。私たち30代やそれ以上の世代が考えている以上に、彼らは慎重である。そしていい意味で思慮深い。物事を素朴神話や素朴ファンタジーで判断しない。とても合理的でシステマティックである。私は自分より下の世代が保守的であるとは思わない。むしろ、保守的なのは今を作り上げて来た世代である。自分たちは勝ち逃げようとしている我々の世代を、彼らは熟知している。

暮らしの快適さを獲得することと、国の制度を利用することとは相反している。言い換えれば、国の制度は機能しなくなってきた。個々人が制度を選ばないのだから、機能しなくなってゆくのは自明である。使われなくなった古いアプリを削除して容量を軽くする如く、これからの世代は自身にとっての価値観を最重要と位置付けて暮らしを構成する。「誰かのために」「他者のために」「社会にために」という行為はファッションになる。

控えめに見て、こういうことだろう。

私はブツブツ思い、考える。

仕事成果を上げるには、生活時間を削らなくてはならない。しかし、家族・家庭を持てばそれは難しくなる。つまり、結婚して子どもを育てるということは、夫婦のどちらかが経済活動を一時停止・停滞・休止させなくてはならない。その選択が経済活動を再開した時に「振り出しに戻る」という場合、人はそれを選択しなくなる。「振り出しに戻すな」と国は制度を用いて要請するが、そんな制度を履行できる環境など行政と一部の企業に過ぎない。ここでも政府の「標準」は都合良く使われて、我々の動機付けは砕けて行く。

仕事で成果を期待できない労働者の扱いは低くなる。成果を上げられなければ、賃金は減少する。それを防ぐために頑張って働いても、家庭環境が保障される訳ではない。家庭環境を維持するために仕事を減らし、所得を減らしても、暮らしぶりが保障されるとは限らない。国の制度は多様化した現象に追いつけない。個々人は真面目で真摯だが、何を補えば快適さを手にできるかを制度は示せない。人々の不満は増大し続けている。

なぜ結婚を選ぶのだろうか。

どうして結婚を選ばないのだろうか。

これからの社会は制度の概念も変化してゆく。それは国という概念も社会という概念も変化することを意味している。今ある当たり前など、古くなって使い物にならないアプリの如く削除されてゆく。その中に婚姻制度も含まれて行くと私は考える。家族や家庭を築き上げることが個々人の幸せから遠ざかって行く以上、それらは変わって行くべきことだと私は強く思う。ひょっとしたら、次の世代が作り上げる制度には「保障期間」が明記されるかもしれない。

人間は更なる合理性へと挑んでゆく生き物である。