4.習慣の変化について

2011年2月22日ミズタニ行進曲

改めまして、本日、退院しました。皆様にはご心配をおかけいたしました。ならびに、励ましのメッセージなどもありがとうございました。

退院後、お店の担当税理士の先生とお話しをしました。青色申告・確定申告の準備です。2011年の売り上げと展開が数字で確認できたよい機会になりました。何気なくお店に立っているようでして、それでいて、いくつかのテーマを組み立てながらお店を動かしています。その結果が数字できちんと裏づけられたことは嬉しい限りでした。今年の励みになりました。

今年はこれから、三原、宇部、今治、名古屋、白浜と巡ります。忙しい日々になりますが、様々なことを試しておきたいので、いかに過ごすかは重要です。3月からにどのように反映されるのか。システムやソフトよりも思索を深めたいなと思います。そしてその思索による変化は、必然的に外面へ現れてくるものと思っています。結果として、お店のシステムやソフトも変化をするはずです。

入院中はある制限の中での習慣が要求されました。それは居心地が良いか悪いかの問題ではなくて、日常とは異なる習慣ということに意味がありました。もちろん、環境からの脱却を目指したくなる気持ちは芽生えます。それは環境が劣悪であるからではなく、ある制限に対する気持ちであり、あれこれの可能性に思いを馳せた結果でした。健康を回復する事が第一目標の習慣では、その環境の質を、病院以外のものと比べる事は適切ではありません(著しい場合を除きますが、今回はそういうことはありませんでした)。

先日の外出許可の時もそうでしたが、退院し、ある制限が解かれるとその外側にある新しい可能性を感じずにはいられません。「ある制限」は、自身の活動の意味と思索を深めて向き合うよい機会になりました。これに似たものとして、日常の習慣とは異なる習慣を得る方法として「旅」があります。これは「旅行」のような遊興ではなく、制限の幅が(現場に行かないと)見えない活動であるべきものを指します。「旅」はある意味でその際(きわ)の制限が自身に委ねられています。その制限の設定と習慣の組み立て方はその先の目的に干渉されるものですが、習慣の変化を手にすることはできるはずです。

習慣の変化は次のステージを用意する階段であり、その階段は上にしか昇れない仕組みになっています。丁寧に言えば、昇らない選択は残っているわけです。これはもう降りられないということではありません。「降りる」という概念が存在しないことだからこそ「変化(変貌)」なのです。時間が戻らないように。我々の日常は、実を言えば、そうした変化の可能性を内包しているのですが、その変化に(まことながら)降りるという概念は当てはまらないのです。あるとすれば、静観する(とどまる)ということでしょうか。

またややこしい言い回しになってしまいました。とにかく、習慣とは「日々繰り返される行為と意味」なので、その内容がある制限によって変化(変貌)するとき、その後に現れる「習慣」は(あたかも)元に戻っているかのようで(あっても)、そのとき既に別の習慣になっているという事です。旅を終えて戻ると、再び旅以前の日常習慣に戻るようでそうでは無いのです。今回の入院はまさしく、習慣の一時的な変化を私に与えました。この「次のステージの可能性」を私はいま、イルピアットに重ねているのです。

退院したとき、「イルピアットでの習慣」がまるで「入院している習慣」であるように思ったのでした(イルピアットで働く = 入院生活)。以上に述べてきた「習慣変化」の説明は、「お店で過ごす習慣を離れる事は、次のステージへの階段であるかもしれない」ということを説明する為のものです。しかしこれは、お店をやめるという極端なものではなくて、「旅に出る」というニュアンスを指しています。それは「入院」でも構いません。そしてそれは、2月の休暇が「習慣変化」を意味しているのではなくて、3月以降の活動内容を示唆するものです。

先日、イルピアットパーティーによる「一区切り」の説明をしました。パーティー開催は習慣変化でしたが、それは過去形になりました。先の説明の中でもあった「別の表現方法を見出したい」という主旨は、まさしく「習慣変化への希求」なのです。イルピアットを離れての活動が習慣変化である為には、やはり、私の思索いかんによるのだと思うのです。そしてその方法はもう、パーティーではないのです。

とはいえ、何か具体的な策が見つかってはいないので、今は威勢が良いだけなのです。残念ながら、このあたりが「ミズタニ」でもあるのです。この不完全さこそ、思索と思想の醍醐味です。

そんな思索を繰り返しながら、これから2月本番です。

イルピアット ミズタニ