ありふれた一般人になることが人生の目標だった。

2023年8月30日お知らせ

浅田次郎著『うたかた』をNHKラジオ文芸館で聴いた。別の機会に誰かの朗読で聴いたことがった作品なのに、今回のNHKアナウンサーによる朗読は格別だった。作中の主人公が抱く心模様が丁寧に展開されてゆく。「贅沢だと思った」「死んでも良いと思った」など、平穏な日常を手に入れただけなのに出てくる言葉の重さがこちらに何かを突き立てる。

作品朗読を聴きながら、「贅沢で満たされている」自分を思い出した。そう、私は満たされている。充実している。平和だし、満足している。自分の人生がこんなにも明るくなるとは思っても見なかった。子どもの頃の貧乏生活から抜け出し、自分で生き抜いてきた自負はそのまま幸福論になっている。私は飢え(かつえ)ていない。大学に入学したての私を尾場瀬先生は「飢えていた」と表現した。

かの子さんを授かり、育て、彼女も12歳になった。この充実は例えようがない。何も持っていなかった水谷少年は、大学も果たし、レストランの営業も19年間続けてこれた。健康にも恵まれ、大きな病気もしていない。借金もなくなり、後は、かの子さんとあいこさんの充実を継続させることが生き甲斐になった。私は飢えていない。

「おまけの人生」と話す事がある。私は満たされてしまった。決して社会的な成功を収めたのでも、富豪になったのでもない。偉くもないし、華やかな暮らしもできていない。自由に消費を謳歌できるのでも、お金にものを言わせてわがままを許容される存在でもない。休日に家族と過ごす時間こそが充実を実感させてくれるような、ありふれた一般人である。このありふれた一般人になることが私の生きる目標だった。果たした頃から「おまけの人生」と口にするようになった。

これ以上、何を求められるだろうか。私には別に欲しいものがない。果たしたい野心もない。振り返ってみると、この「普通」になりたかったのだ。些細な買い物をする欲求くらいある。ガンプラの完成品をリール動画で永遠眺めることもできるし、アウトドア用品を見てはキャンプ準備を妄想してニヤニヤしたりもする(決して行っていない)。好みのクルマを見れば「欲しいなぁ」などと夢物語のように呟く。しかしそのどれもが基本、「どうでも良い事」なのだ。

自分が欲しかった暮らしはもう手にできている。そこから先は全部おまけなのだ。12坪の小さな自宅(ブライトンホテルのスーペリアルームとほぼ同じ大きさ)に暮らし、妻と子どもに恵まれている。朝から夜中まで働くことも全く苦じゃない。適度にこうして自分の時間を作れてもいる。ああ、これで良いのだ。『うたかた』を聴きながら、私もこれくらいで良いのだと思った。これ以上は欲張りになる。

だからか、挑む壁とか山を作り出したくなる。家族を壊す訳にはいかないから、自然と、自分の働き方をいじることになる。自分を熱くさせるような課題を作りたい。大学を目指していた頃の飢えた気持ちまでには至らないか、しかし、没頭したい。料理は仕事の手段ではあるが、有名になりたいとか、上を目指したいとか、そういう気持ちがない。料理はきちんと作ることに専念したい。料理に対する野心はないのだ。だから、評価も好きにしてくれていい。美味しいものを丁寧に早く作ることだけに専念したい。

『うたかた』の主人公は「幸せだった」と言う。傍から見れば、そんなささやかな幸せは手応えが無いように映るかも知れない。なるほど。幸せは手応えが無いように映るものなのかも知れない。傍から見て、他者からの評価によって、幸せは決まらない。充実もまた同じである。どこまで行っても切りがない。私は自分で充実を感じられる時間が得られて幸せものだと思います。

朗読を聴き終わり「ああ、そうだった。私は満たされているんだった。おまけの人生だった」と思い出した。そう、忘れていたのだ。何かをしなくてはならない気持ちに染まって、無理に自分を飢えさせる為の自傷癖が出ていた。そうだった、そうだった。なーんだ。もう果たせていたじゃないか。では、ここからはもっと好きにして良いという事だな。なるほど。もうきちんとできているのだし、やっぱり何を始めても良いのじゃないか。

珍しく、自分をきちんと評価する機会になった。もう幸せも充実も手にしている。それを目指して果たしている。これ以上、何かをしなくてはならないのではなく、何をしても構わないということを考えてみようと思う。とりあえず、文章をまとめてゆこうか。たいまがアルバイトでいてくれる内に書かないと、彼に添削してもらえない。しかし、こんな飢えていない人間が書く文章なんて面白くなるだろうか。