わたくし、49歳になりましたの。

2023年2月19日ブログなど

 イライラしてません。ただ、言っていいですか。ある程度の問題や、事件や、世間の動きについてなどには答えられます。しかしその「答え」は「解決策」ではないのです。わたくしが答えられるからと言って、その答えた問題を解決する運動や活動をしている訳ではありません。

 例えば、沖縄の問題。沖縄の人々が抱えている本質的な問題や過酷についてわたくしは知りません。ですが、「何が起きているのか」というニュースを知っています。沖縄で問題になっている出来事のニュースの一部を知っているに過ぎません。この「知っている」ということを「理解している」とか「活動している」などと解釈するのは間違いです。

 ですが、沖縄にある「問題」が「ない」訳ではありません。沖縄には抱えている問題が確かにあります。それを知らないから「ない」と言ってはならないのです。だからこそ、その問題の存在を「知っている」ことはとても重要です。「知らない」ことを「ない」と解釈するのは間違いです。「知らない事」は「知らない」と言いましょう。

 その上で、わたくしは自分が知っている情報やニュースに基づいてしか話せません。結果的に、人よりも情報が多い事もあります。これは賢いとか、考えているとか、問題を解決しようとしているとか、そういう事でもありません。ただ知っているだけです。付け加えるなら、その知っているだけの情報やニュースをきちんと自分なりに理解して解釈したいと思うので、本を読みます。必要なら関連する意見動画や関連ニュースを調べます。この事を「学習」と名付けるならそうだと思います。

 物事は簡単に理解はできないものなのです。あるニュースがあって、そのニュースだけでその事象を理解する事など到底できないものです。自分で考えて、考察して、調べて、理解して、意見交換して、熟考して、そういう事をしないと理解など難しいのです。これは、「理解すべきだ」と言っているのではありません。わたくしは決して、「ニュースを短絡的に捉えるべきでない」と言っているのではありません。

 言いたいことは、そのニュースに関心を持てたのならきっかけの種が撒かれましたから、発芽まで持っていくのはどうでしょうか?といお誘いをしているという事です。ニュースの発芽を見たら育ててみるのはどうですか?そして収穫するのはいかがですか?そういうお誘いです。収穫までしても、「そのニュースにまつわる問題を解決するために活動している」という事にはなりません。理解を深めることは解決に近づける事ではあるかも知れませんが、解決を導くことではありません。

 とてもとても大切なことは、「理解することが解決できる」ということでもないと言う事実です。「物事の理解に達したらその物事の問題は解決に導ける」ならば、世界はこんな風になっていません。理解に達しても解決できる訳ではないのです。ですが、いいですか。あるニュースがあって、そのニュースに関心が寄せられなければ、そのニュースの現象は「なかったこと」のように扱われます。これが最もよくない。

 確かに現象は起きている。事件も事故もある。問題もあるし、倫理や理性を揺さぶりもしている。しかし関心が寄せられなければ「なかったこと」のように扱われてしまう。その結果、それを自分の都合よい解釈だけで話し始める輩が現れます。その都合よい解釈によってその現象は違う解釈で伝えなおされて、思惑通りに関心を持たれれば、「元々がそういう事だったのだ」という解釈を許してしまう。

 恐ろしい事です。その結果、「社会には問題はない」という解釈が生まれるならば、わたくしに言えることは「学習したまえよ」という事だけです。問題を解決などしなくてもいい。しかし、問題を知る必要は大いにあるのです。関心がないのなら触らなくても結構です。であれば、「問題はない」とも言わないでもらいたい。「ない」と言えるのは調べて立ち向かった結果、「ない」に辿り着いた人だけのように思います。この場合キミが使える言葉は「知らない」だけだとわたくしは思うのです。

 いいですか。イライラしていません。ですが、自分の無関心を隠すためなのか、無知を晒したくないからなのか、そういうことは分かりませんが、「自分には関係ない」「そんな問題は起きていない」などと軽はずみに言うものではありません。「ない」を口にするには学習が必須と思います。学習がないなら「知らない」と言ってください。知らないのなら仕方ありません。あなたは「知らない」のですから。

 わたくしは全ての人が賢かったり、学習をしたり、教養を身に付けられたり、そんな風になればいいと思ったりしません。それは無理です。それを達成しても世界は平和になりません。断言します。そんな事はどうでもいいのです。ただ、賢くなかったり、学習を身に付けられなかったり、教養を軽んじたりする人々は、為政者たちに都合よく利用されやすい事も事実です。

 一部の人間たちに世界を委ねて、残った部分を分け与えられればいいと考えているなら浅はかです。残る部分などないのですから。あなたたちに分け与える世界など用意されるはずがないじゃないですか。理由がないです。意味もない。なぜって、自分で考えもせず、空から快適さが降ってくると期待するばかりで動かない、世界の仕組みや歴史にも関心を寄せず自身の欲求にだけ素直なあなたにどうして世界の一部分が与えられるんですか。笑わせないで欲しい。

 賢くて、学習もして、教養を身に付けたとて、世界は与えられないかも知れない。諦めますか?どうぞ、諦めてください。わたくしはもうその事に付き合う事はやめました。諦める人は諦めてください。わたくしは世界を欲しがりもしません。ただし、好きにさせるつもりもありません。一部の人間の好きにさせてなるものか。「社会には問題がない」という延長線上には、世界を差し出すような適当さが見えて反吐がでます。そんな無知でいいはずがない。頼むから「知らない」とだけ言ってくれ。

 49歳になった深夜。社会への不満なのか、報われない気持ちの苛立ちなのか、そういうことは分かりませんが、ある酔っ払いの相手をしながらわたくしは49歳になりました。帰宅すると午前1時。かの子さんがまだ起きています。ipadの利用時間も守れなければ、就寝時間も壊れている。自分がしたい事を快適にするためには守るべきことがあるのですが、その理解が難しい。自分の快適さは自分で作るべきだ、という話をしました。そしてそれには周囲の合意や助けが必要になることも伝えました。わたくしは解決策を伝えていません。かの子さんも酔っぱらいの彼も、自分で考える必要があります。

 わたくしは世界に期待をしていませんが、自分のお店を通して、社会の役に立てるようにと努めています。何のためにか?快適な時間を過ごしたいからです。わたくしの快適さは自分で作ります。その為にはお店がきちんと回らなくてはならない。回るためには料理も、店内も、スタッフも、サービスも、その他の様々も、きちんとしなくてはならない。それだけです。社会の役に立ちたい。「レストランがあってよかった」という人を増やしたい。

 きちんとする毎日だけでは疲れてしまう。だからこそ、ユーモアも必要です。息抜きや羽目を外す時間も大切です。時には期待を裏切って、でたらめにすることもあっていい。そうして、きちんと戻ってきて欲しい。責任を意識して欲しい。覚悟を知って欲しいし、持って欲しい。そのためには多くの事柄に関心を持つ必要があるかも知れない。知識と教養と学習は、叶うなら、関心を寄せる人と共にあって欲しい。問題解決への運動をする責任ではなく、関心を持つゆとりこそ重大と思います。疲れたら休んでください。

 社会を背負わなくていいです。暮らしも背負わなくていい。倫理や秩序、規律や正しさに溺れたりしないでください。どんなになっても、地球はあなたに無関心です。社会はあなたを頼りにしていますが。できることをしてください。お金持ちになるとか、有名になるとか、権力を持つとか、どうでもいいです。好きな人に「誕生日おめでとう!」と言える人でいてください。その関心は、世界と繋がるきっかけですよ。