「金持ちも権力者もある劣悪な性質は同じで、「バカは人柱として使うに尽きる」と考えている」

2022年8月17日お知らせ

 「人いきれ」という言葉がある。漢字では「熱れ(いきれ)」と書く。先日の京都新聞に記事見出しとして使われていた。目にしたとき私には意味がわからなかった。「制限なき帰省 人いきれ」という見出しだったと思う。知識のない私は早速、電子辞書で調べた。「多くの人が集まって臭いや熱気でムンムンすること」とある。そんな表現があるのか。「野外フェスは人いきれて、テンション上がった」ように使うのだろうか。

 「忖度(そんたく)」という言葉がある。森友学園の土地売買に関係する事件で大阪市の松井市長が会見で使用した言葉だ。「近畿財務局の職員が忖度したのだろう」という使い方だったと思う。この事件は権力側への謙った(へりくだった)対応によるものという点で注目され、その態度を一言で言い表し、「そういうことはよくあるよねー」と言わんばかりにそれから「忖度」という言葉は一般的になった。しかし同様に、松井氏が会見で使用するまで私はこの言葉を知らなかった。

 知識と教養は、日常を過ごす上でとても有効だ。何に有効か。怪しい情報や誘い、自分を貶め(おとしめ)たり搾取しようとする者たちから身を守る力になる。自分にあるガバガバな隙間を知識と教養は小さくすることができる。知らない事を「知らない」とはっきり言えることは素敵だと思う。知らない事があれば、きちんと調べて知ればいい。知らない事は恥ずかしいことではない。「知らなかった」は大切だ。知らない事は調べよう。知識と教養は調べて学ぶしか手段はない。

 ある宿に宿泊した際、隣のテーブルに居合わせたグループが賑やかに会話をしていた。会話の中心には手相占い師らしき人物がおり、5名ほどのそのグループは皆熱心に話を聞いていた。「ネックレスをしていると生まれてくる子どもが臍(へそ)の緒を巻いて産まれる」と妊婦であろう人にその占い師は話していた。内容が怪しい。なんという朝だろう。

 耳をそば立てて聞いていると、「教育」「健康」「財産」「育児」についてアドバイスしている。どれも不安を抱えがちな内容である。どれも噂が多く、「方法によっては上手くいく」と信じられている事柄だ。信じられてはいるが、その確かな方法は地味で時間が掛かる。そして多くの場合、「地味は嫌で、時間を掛けたくない」と考える。

 妊婦が「それじゃあ、私、ネックレスやめる」とケロリと話す。影響下にあるのか、機嫌を取るための発言かは分からない。一泊してチェックアウトするのを待つまでの10分程度の出来事だ。一晩、グループで一緒に楽しい時間を過ごしたのだろう。今朝になって妊婦がネックレスを身に付けた変化を見逃さないそつのなさ。手相占い師は少しの変化を見逃さない。変化があればそれは気持ちの変化として捉える。気持ちの変化には隙間があるものだ。

 手相占い師は快活で人との距離を取らない。誰にでも馴れ馴れしい。宿のスタッフにも、グループのメンバーにも、人の懐に入り込む。人との距離を取らない人間を私は信用していない。何かしらの思惑があると反射的に構えてしまう。バカに明るい営業回りなどがそれだ。何かを買って欲しいか、譲って欲しいか、抜き取りたいか、そういう思惑しか感じない。私からすれば、この手相占い師は甚だ怪しい。

 わたくしが耳をそば立てて聞いた内容では、不安を煽り、印象で結論づけて、その根拠が「手相と習慣」というものだった。「これは特別なもので、身に付けていると負のオーラを祓う力がある」と踏み込むのも時間の問題にさえ思えた。「そんなことを信じるはずはない」と思うだろうか。しかし、そんなことを信じさせてしまうものなのだろう。不安を言い当てられ、煽られ、日常の習慣に関連付けられ、「このままだと解決しないが方法はある」と一筋の可能性を示され、難しい判断になると勿体ぶらせて、「どうしてもと言うなら」と「あなたが求めた」ように状況と立場を持ってゆき、話を進める。

 核心に入る時に、占い師は一対一で話す。他者の干渉を排除する。「悩み相談は一対一が基本形」という暗黙の了解がある。だから、その宿で見た光景はイントロダクションでしかなく、以降は個別に差し込んでいくのだと思う。悩みは秘匿で隠匿される性質。「誰にも話さない」という性質が信頼のログインだ。「他の人にIDやパスワードを知られないようにご注意ください」という関係になる。

 この事はその占い師に限らない。いまニュースを賑やかにしている旧統一教会絡みの勧誘も同様だ。そしてこの事は結婚詐欺にも同じだし、架空投資詐欺も同じだ。「こうなりたい」という気持ちや言葉が聞こえる限り、詐欺はなくならない。つまりは、なくならない。「健康になりたい」「幸せになりたい」「仕事をうまく運ばせたい」「お金持ちになりたい」「思い通りに過ごしたい」。世界には「こうなりたい」が溢れている。そしてそれは「人生は楽しまなくっちゃ!」というロマン主義に裏打ちされる。「一度きりの人生だから」という刹那主義に冒されて、お気軽な成功事例を信用し、ハードルの低さを容易く信じ、「地味は嫌で、時間は掛けたくない」ことがもてはやされる。

 容易く手に入る成功など、この世界にはない。成功者たちが自身の運の良さを「簡単だよ」と嘯く(うそぶく)ことは、実に怪しい。YouTuberの成功者が「これは儲かる」などという事は殆どが搾取である。簡単に生きられるように手ほどきする事が流行りのようになってしまった。関心は自分にまつわることが中心で、社会の役割や、仕事の意味を考えるようなきっかけにも恵まれにくい。話題や人気のあるものには価値を認め、権威・権力が示すことには無批判で、日常の目につく非常識については誹謗中傷と罵詈雑言を浴びせ、浅はかな考え方や思い込みでヤフコメ欄に書き込んで支持を得ると賢くなった気分になり、およそ自分には責任の及ばない暴露ネタに一喜一憂する。

 しかし、こんな事はもうどうでもいい。別に構わない。好きにすればいい。こうしたことを指摘したとて、世界は変わらない。私も世界を知ったような気分でいたくない。私はこの世界や社会にまつわる倫理を打ち立てる立場にない。これまで書き記してきた指摘も、これまで表明してきた考えも、それが理性的で倫理的であっても世界は変わらなかった。そうなのだ。世界は変わらないのだ。ひと一人の小さな文章や行動など、何かを動かしたり変えたりしない。

 だが、私は嫌だ。逆説的に、私は諦めない。お手軽な成功を追いかける人間を止めようとは思わない。勝手にしてくれ。しかし私は関わらない。そして、ロシアのバカが。2022年2月24日にロシアが侵略戦争をウクライナへ仕掛けた時点で、世界は敗北した。人類がこれまで打ち立ててきた制度も、秩序も、イデオロギーも、倫理も、芸術さえも、ロシアを思い留まらせられなかった。私の目からは、ロシアの侵略はお手軽な成功を追いかける人間たちのそれと何ら変わらない。

 お手軽な成功を求める意識の総体は、ロシアの侵略を遠巻きに支持している。権力や権威があれば非道も正義になると信じている。金持ちはそれだけで偉くて、何か大きな力を持つから倫理的な咎めはないと思い込み、それを「自由」だと薄弱な知性で理解する。バカである。これらをバカと言わずして、何と呼ぶ。世界にはバカがいる。

 高速道路を走ると相変わらず煽り運転をするバカがいる。フジロックでも運営のお願いを守らないバカがいる。海水浴やバーベキューの機会にごみを持ち帰れないバカがいる。そこかしこに他者を顧みない場面がある。些細な、小さな、取るに足らない、敢えて指摘しても面倒な、自分が飲み込めば揉めない、見て見ぬふりでやり過ごして関わらないのが一番だ、と思うような身勝手に出会う場面がある。

 日常に出会うバカが増えると、真面目にする気持ちを静かに腐らせる。丁寧に時間を掛けて過ごそうとしても、干渉を受ける。遠回りする事や、面倒なことは邪魔者扱いされる。私たちの暮らしは便利になったはずなのに、バカは減っていない。バカを減らすために有効なのは便利になることではなかったようだ。私はコロナに感染して以降3週間、家族以外の人間とまともに話をしていない。すると、すっかりとバカになってしまった気がする。

 バカになった気がするのは、自分の考え方が単調で保守化する実感があるからだ。誤解を招くといけないので丁寧に説明するが、ここで私が言う「バカ」は、先ほどに指摘した「身勝手なバカ」とは違うものだ。しかし残念なことに、単調で保守的な暮らしに慣れ親しむと、根のあるしっかりとした論理性を受け入れづらくなる。暮らしを維持することに重点が置かれると、その維持にまつわるルールはタコツボ化し厳しくなる。「村の掟(おきて)」の誕生だ。保守的な考えは権力化しやすく、権威を欲しがる。「維持すること」と「権力化すること」は相性がいい。相性がいいだけでなく、蜜月である。家父長制度はその最小単位だし、男尊女卑もその性質を内包している。

 権威化・権力化させる性質は、それを持つ人間を身勝手にするものだ。先に指摘した「お手軽な成功を求める意識の総体」の源泉になる。権威的・権力的なものに取り付くことでお手軽な成功を目指す。権力者はその「お手軽な成功意識高い系」を実に都合よく利用する。プロパガンダにも使うし、権力闘争の道具にもする。

 バカは使われるのだ。報酬として、社会や他者を顧みない免罪符を受け取って、我が物顔で身勝手に過ごし自慢げに振舞う。人が少しずつ離れて行き、他者から関りを遠ざけられ、孤立し、より粗暴になり、クズのように捨てられる。金持ちも権力者もある劣悪な性質は同じで、「バカは人柱として使うに尽きる」と考えている。

 話を戻すと、「自分の考え方が単調で保守化する実感」はバカになる兆しとでも言おうか。手相占い師のまやかしも、ロシアのバカも、権威・権力の性質も、金持ちの性格も、「儲け話」のような背景を持っている。「お手軽に成功したい→こうなりたい」という欲望。その為には他者を陥れ(おとしいれ)ても構わないという思想と性質。これらに共通する欲望の暴走は、ロマン主義が肯定的に支えている。

 世界を見回して難しいのはまさに、欲望の暴走を止めることだし、搾取だし、詐欺だし、バカだし、ロマン主義だ。権力を監視する意味をきちんと理解しなくてはならない。権威が暴力的に価値を押し付ける市場を疑わなくてはならない。金持ちになれば身勝手に振舞えるような風潮を文化的に糾弾しなくてはならない。そういう事が起きているいまを見抜くために、知識と教養を身に付けなくてはならない。知らない事に気付けたなら、調べて知ることから始めなくてはならない。

 私たちは、権力や、権威や、金持ちの都合で生きているのではない。

 家族以外の人と話さなくなると、姿勢は自然と保守的になる。それが平和であるなら幸せだ。欲望の暴走をコントロールでき、権威化せずに、静かに過ごせることは美しい。私は親しい人に限らず、きちんと会話ができる人との対話がない日常は自分をダメにしてしまう。たかだか3週間の時間で、自分は保守化が始まったと感じるほどだ。これは寂しいとか、孤独とは違う。私は常に餓えて(かつえて)いる。きちんと会話できることに餓えている。きちんと会話ができる相手の存在は生きる上で重要である。会話による価値観の確認作業は尊い。迂闊な占い師の言葉を撥ね(はね)つけ、権力者たちの好き勝手を見抜き批判的でありたい。

 「批判ばかりしても意味がない」というのは浅はかで、権力者は身勝手に振舞う性質であることを先ず理解すべきである。そしてその身勝手さは影響が甚大であることをきちんと理解すべきである。自分自身にも身勝手な気持ちがあるからと言って批判的になれない人は、「蚊に刺される事とミサイルを撃ち込まれることが同じ程度の攻撃であるかどうか」を考えてみればいい。批判しない事はこれらを「同じ程度」と捉えているに等しい。

 世界は変わらなかった。私が社会学を学んでも、戦争はなくならなかった。貧富の差もある。社会には、世界には、問題が山積みのままだ。権力者たちは自分の劣化版のコピーを撒き散らしながら、「使い捨て人間」の層を作り出している。私の力ではどうにもならない。しかし、できることを小さく続けよう。私にはお店があり、料理がある。美味しいものを作ろう。

 わざわざ、しようと思う。手をかけて、時間をかけて、要領も悪く、不細工にしようと思う。格好付けられない。これから先も上手く立ち回ったりできない。これまでも上手くはなかったが、より一層、上手く立ち回れないと思う。丹後大宮と井原で見た彼らは、「美味しいものだけ作る」という信念があった。その信念はその地域の文化を作った。「美味しいもの」は権威的であってはならない。美味しいものは等しく美味しくなければならない。美味しいものは文化を作る。いま思うことは、只々、美味しいものを作ろうということだけである。