飲食店主が考えるコロナ禍について2  ~丸山真男『日本の思想』から読み解く~

2021年8月6日お知らせ

飲食店主が考えるコロナ禍について2 
~丸山真男『日本の思想』から読み解く~

ミズタニトニーヨシオ

「まん防、3回目」
 2021年8月2日の月曜日。3回目の「まん延防止等重点措置」が発出されました。日常に関わる制限を緩めたり、強めたりと、政府は感染拡大を封じ込める手段を失いつつあります。緊急事態宣言も、まん延防止等重点措置も、人々の日常行動を制限する効果を失いつつあります。東京五輪によるお祭りムードもまた、行動制限を楽観的に捉える風潮に加担しています。

 私の飲食店もまた、閉店は20時となりました。酒類の提供もできなくなりました。「要請」なので「できなくなった」という表現を厳密には使えないのですが、気持ちは「できなくなった」と認めています。制限の協力に応じる形で、期限である8月末日まで休業を選んだ飲食店が幾つもあります。「休業されるところが増えました」と今朝、配達に来た取引業者も話していました。夏の暑さと、行動制限と、協力要請と、休業。人が暮らしを立てる条件としては「過酷」以外の言葉が見当たりません。

「純粋な、問い」
 私は取引業者が話していたことが引っ掛かり、京都府の知事室広報課へ電話を掛けました。京都府は昨日8月4日に感染者が277人を数えました。京都市内だけで187人。過去最高の感染者数です。この数字も更新されてゆくと思います。この状況を踏まえ、私は府に「感染者の感染経路と感染状況の実態」を尋ねました。加えて、「飲食店が講じている感染予防対策の効果」についても尋ねました。その上で、「取引業者たちはどんどん困難な状況になっていく」と窮状を訴えました。

結論から言えば、京都府内での感染拡大についてどこへ質問して回答が得られるのか、行政も分かっていませんでした。私の質問に困るばかりなのです。きちんと答えられる部門などないのです。「感染者がどういう状況で感染したのかを知りたい」と尋ねても「20代が中心」と尋ねていない内容の回答なのです。感染者が増えてもその内容は知らされない。どうして感染者が増えているのかを考える時に「動いているから」と大まかな回答が返ってきます。飲食店に細かな感染予防対策を講じるように呼び掛ける割には、感染状況の把握は雑なのです。

「タコツボ型について」
このギャップを考える時にも私の頭には「タコツボ化」という言葉が浮かびます。丸山真男氏が『日本の思想』という書籍の中で、「日本の文化と日常」を説明する際に用いた表現です。「思想のあり方について」という章で論じられています。この中で丸山は「私はかりに社会と文化の型を二つにわけて考えることとします」と述べ、「ササラ型」と「タコツボ型」と説明しました。

「ササラ型」は「ギリシャ~中世~ルネサンス~と長い共通の文化的伝統が根っこにあって末端がたくさん分化している」ことを指すと説明しています(「ササラ」は竹の先を細かくいくつにも割ったもの)。ヨーロッパの学問体系や文化的伝統が根っこで共通しているから、「掘り下げてゆくと共通の根っこにぶつかる」と説明しています。

「タコツボ型」は「おのおのの科学を掘り下げてゆくと共通の根にぶつからない」と指摘しました。「タコツボ型」は「内輪」と「そと」を作り出して「無限に細分化される」といいます。タコツボ型の社会はその内輪で「専門隠語」を生み出して、結果、考え方も沈殿して集団意識を作り、その中で偏見も生まれると説明しています。タコツボ型により「タコツボ化」した集団には、他との共通した根っこがなく、イメージと偏見だけで思考するのでどの集団が力を持つかとばかりに気が取られ、そのこと自体も確証ではなくイメージで判断される、としています。

少し難しい話かも知れませんが、丸山は日本の文化には掘り下げた末に共通する認識や文化や学術の歴史がないと嘆きました。その事に無自覚なのは、日本のインテリジェンスがヨーロッパなどのインテリジェンスを(やはり)イメージとうわべだけで都合よく取り込んだ結果だ、と説明しました。結果として根っこがないので、自分たちで偏見とイメージを増大させて自信の無さを慰める惨状であると考えたようです。これは私の解釈です。

「イメージで判断される現実」
コロナ禍において、先日にもお話した通り「イメージの先行する現象」が色濃く出ています。未知の現象と向き合う場合イメージは重要ですが、日本の場合は「コロナ禍という現象に対するイメージ」ではなくて「結果としてどう扱われるかというイメージ」ばかりが心配されています。その結果、「感染予防対策のより良い方法」よりも「言われたことができるかどうか」という点に関心が集まってしまいました。

倫理的、教養的、知性的な習得レベルは「感染予防対策の遵守によって証明されるもの」と捉えられがちです。このことが「人々の気持ちの分断」を容易くさせてしまいました。感染予防対策の遵守は確かに重要ですが、だからと言って、実現できるかどうかは別の話です。人々の日常は細分化していて、大まかには同じに見えても詳細では決定的に異なる現象が確認できるものです。ですが、私たちは一括りにされた事柄でしかイメージできていません。感染予防対策は大きな行動には有効ですが、細かな事情には配慮を欠くものです。

「共通した根っこを探して」
京都府への電話でも明らかですが「部門がまたがること」で私の質問は迷宮入りしてしまいました。まさに「共通した根っこ」がないのです。この状況下でも行政は「感染状況の共有」ができていないのが現状です。ですが、飲食店には共通した感染予防対策は有効だと協力要請を続けています。私は純粋な疑問として、飲食店が努力してきた成果を知りたいのです。その為には、行政や政府や自治体などが「感染状況の把握」程度のことは出来ていないと話にならないと思うのです。

未知の現象が起きているからこそ、科学の知見と指摘に基づいた行動制限が有効だと考えています。その説明には論理性と丁寧さと分かりやすさという「理解」がなくてはなりません。人々が安心して実行できる実現性も重要です。私はこの重要性を料理の調理にも重ねて見ています。何となくと作る料理には再現性がありません。ですからレシピを作ります。この事は再現性だけでなく、第三者への理解にも繋がります。共有できる再現性を科学と呼びます。私は感覚で調理をしますが、詳細をきちんと突き詰めれば「根っこ」があります。

私が飲食店を表象し、代表しているとは考えていません。ですが、「そうでない」とも考えていません。社会には様々な捉え方があります。私たちが捉える社会には共通した根っこがないのかもしれません。しかしどこかに、理解を共有する手段はあるはずなのです。料理のレシピの様に経験と実践によって「根っこ」を生み出せるのではと考える日々です。この可能性をどうすれば共有できるのか。「結果としてどう扱われるのかのイメージ」に囚われてはなりません。私たちは実効性のある日常を考え合わなくてはなりません。

「現実味を失う現実」
実現性があり、実効性があり、再現性が補償される手段を考える時、イメージでは何も変わりません。感染者の背景をイメージで知らされる現状では、有効な策を講じられるはずもないのです。誰が決めた事柄で、何を根拠にしているのか、と突き詰めた先に「政府が決めた」という決着があります。私もお客さまに「政府が決めた」と説明する事があります。しかし政府は「専門家会議」と言い、専門家会議は「政府が決める」と言います。各部門も同じで、「政府が決めた」と繰り返すのです。

この事は非常に問題です。今起きている現象の理解について、説明ができていないのですから。現実味さえ曖昧になります。現実味が乏しい状況下では陰謀論が台頭します。陰謀論は不確かな現実に「イメージ」を与えます。「根拠がない事は現実にも同じだ」という論調が不安な人々を惹きつけます。陰謀論者たちはタコツボ化しているので「内輪」と「そと」を作ります。そしてすっかりと、その内輪でしか通じないイメージと用語を使います。「現実にも根拠がない」と言う論調が「現実味」になる時、陰謀論は現実味を帯びます。

「レシピを作ろう~飲食店主が考えるコロナ禍」
私たちはこうした、不安定な日常に放り込まれました。だからこそ「レシピ」は重要です。私はきちんとしたレシピを求めています。失敗する事も想定内です。諦めない決意があればレシピに辿り着くものです。私はこう考えます。「このコロナ禍に有効なレシピがまだ登場していない」と。たどり着くためにも「共通の根っこ」を持たねばなりません。情報共有と現状把握がそれを促します。イメージ先行の感染予防対策に対する評価もきちんと必要です。継続した対策には評価が欠かせません。

感染者も、予防対策をしない人も、陰謀論者も、協力要請を遵守している人も、今のままでは「タコツボ化」したままです。このままでは総崩れになります。私たちはそれぞれが抱いた偏見とイメージを一度、放棄するべきと考えます。その上で、きちんとした根っこを持たねばなりません。部門が違っても分かるように。解決できなくても情報共有は可能です。タコツボ型は連帯できない事も特徴です。私はただの飲食店主です。飲食店主が考えるコロナ禍は、タコツボ型では解決しないなと思うばかりです。

難しくなりました。最後まで読んでくださり、感謝しています。思いの外、難しい言い回しばかりになってしまいました。もっと分かりやすく書けるよう、努力します。コロナ禍において私たちが分断されることは遠ざけるべきです。分断のきっかけが倫理やモラルや不道徳であったとしても、遠ざけるべきではありません。共通した根っこを見つけられると良いのですが。お金の獲得数や、経済効果を根っこにはできません。それらはそもそも格差を内包しているのです。共通の根っこには格差が生じないよう注意が必要です。

この夏にどういう感染状況が展開されるのかを注目しています。そして、政府がきちんと責任の所在と制限の説明の実現ができるようにと願うばかりです。飲食店は料理を作り食事を提供します。私はその時間に、根っこの可能性を見ようとしています。大げさですが、共通の根っこは思いの外シンプルなものだろうと考えています。見つかったらまた報告します。ありがとうございます。