#ユーモアを取り戻そう。~これまでのコロナ禍制限の経緯と政治の失敗について

2021年6月5日お知らせ

緊急事態宣言が再々延長になりました。4月25日からお酒の提供を控えるよう要請された緊急事態宣言は、5月11日の期限、5月31日の期限を更新して6月20日まで延長されました。営業時間は20時までという要請も継続です。最初の緊急事態宣言は2020年4月16日(東京、神奈川、埼玉、千葉、大阪、兵庫、福岡など7都府県は4月7日)に全国へ発出されました。この一回目の宣言は5月14日に北海道、東京、埼玉、千葉、神奈川、大阪、京都、兵庫の8都道府県を除く39県で解除、5月21日に大阪、京都、兵庫が解除、5月25日に全国すべての都道府県が解除と言う運びでした。

 二回目の緊急事態宣言は2021年1月8日に東京、埼玉、千葉、神奈川の1都3県に発出され期限は2月7日としました。そして1月14日には宣言対象を栃木、岐阜、愛知、京都、大阪、兵庫、福岡に拡大。期限は同じ2月7日としました。しかし2月7日に宣言解除がされたのは栃木のみで、他の10都府県は3月7日までの期限延長となります。この決定は2月2日でした。感染状況が抑えられつつあるとして、大阪、京都、兵庫、愛知、岐阜、福岡の6府県は2月28日に宣言が解除となります。この決定は2月26日でした。

 3月5日。東京、埼玉、神奈川、千葉は宣言解除に至らず、さらに2週間の緊急事態宣言延長がされます。期限は3月21日まで。そして3月18日に1都3県の緊急事態宣言を21日解除と決定。3月21日に全ての都道府県で緊急事態宣言は解除されました。京都では緊急事態宣言後に出されていた営業時短要請も3月21日に解除されました。12月21日から続いた時短要請もこの日ですっかりと解除されました。京都市は「通常営業」に戻りました。

 しかし。4月5日から再び時短要請が要請されました。4月12日には「まん延防止等重点措置」が適用され、期限は4月24日の計画でした。この期限は守られますが、皮肉にも、それは感染拡大を抑えたからではありませんでした。感染状況は抑え込められずに悪化し、3回目の緊急事態宣言が発出されました。宣言の対象は東京、大阪、兵庫、京都です。この緊急事態宣言は「大型連休中に集中的な制限をし、感染を抑え込むため」として酒類などの提供自粛がセットになりました。

 という、流れです。3回目の緊急事態宣言は5月12日に愛知、福岡を追加、さらに5月16日には北海道、岡山、広島、が追加され9都道府県になります。9都道府県の宣言期限は5月31日に合わせられました。5月23日には沖縄が追加され期限を6月20日までとします。5月29日に先の9都道府県に出されている緊急事態宣言の期限を6月20日まで延長することが決定します。医療体制のひっ迫が続きワクチン接種が遅れている日本において、新型コロナウィルスの感染拡大は行動制限でしか抑え込めないのが現状です。

 ざっと経過と政府決定の大枠をまとめてみました。私たちの暮らしと日常はこの17か月間にすっかりと変わりました。マスクの着用が当たり前になりました。それに伴い、マスクを着用していない人を見ると敏感に反応するようになりました。公共の場では礼節として認識されるまでになりました。海外では義務になった地域もあります。「マスク会食」という言葉が耳馴染みなかった時間は数か月でした。「守る、守らない」という視点を話しているのではなくて、「そういう出来事が起きているね」程度のものと思ってください。

 そうした日常の小さな変化はたくさん起きています。割れたグラスの破片の様にたくさんあるのです。一粒ずつは小さくて元々が何であったのかは分かりませんが、きれいに再生すれば「以前はこうだったね」と振り返る事になるでしょう。外出するときに気を付けること、人と会う時に配慮すべきこと、物を買う時に慎重になる気持ち、外食する時に同席する人たちの振る舞い、自身の所得の減少、日々の暮らしの見通し、人に会いたい気持ち、会話の長さや内容、食事の内容、衣服の更新、イベントの消滅、たくさん陳列された商品を見る機会、何といっても誰かと会って話す機会。度重なる制限によって静かに諦めてきた「ちょっとのこと」たち。私たちの日常は細かなグラスの破片になると分かりますが、絶妙なバランスで構成されています。

 この17か月。疲れましたか?私は振り回されつつも以前とは違うグラスを手に入れた気分です。語弊を生むかもしれませんが、私は度重なる制限にうんざりしながらも自分を試せることにワクワクしてきました。私の性分は「変化がないと自分で壊したくなる」というものです。この性分はあまり人から理解されません。ですから、この性分を普通と呼びません。ただ、異常ではありません。「スタンダードではない、一般的ではない」という意味です。非常識とか、奇異とか、変態とか、そういう領域ではありません。安穏とした暮らしを続けられない。同じ日常の繰り返しは耐えられない。同じメニューを作り続けられない。同じ景色の中で暮らせない。これまでもイルピアットは様々な変化を繰り返してきました。それは「変化」と言えば結果ですが、その前には必ず私の衝動があります。私はその衝動を抑えられないのです。

 この衝動は新しいものを生み出したい気持ちと繋がります。物質的でもいい、時間の流れでもいい、感情への干渉でもいい、今と同じでなければいいのです。以前から表明していますが、私は「人生を楽しまなくてはならない」と思いません。「一度きりの人生だから楽しまなくちゃ」という考えは微塵もないのです。人生は一度切りがいい。何度もいりません。人生は楽しいものですが、そうあるべきだとは思わないのです。楽しむために生きていません。生きている事は結果として楽しいです。私は楽しむことよりも変化が欲しい。この性分は昨年から続く面倒な制限と相性がいいと思います。

 私はこんな性分ですから、人と一緒に何かを続けることが苦手です。一人でいることが結果として人に迷惑をかけないで済むからです。ですから、誰かに会いたくなるとか、飲み騒ぎたいとか、たまらなく寂しいとか、誰かとライブに行きたいとか、そういう気持ちが元々あまりないのです。自粛の対象になっているそうした出来事は、私個人には影響がないことです。自粛の対象商業は影響が甚大ですから今話している事とは分けて考えてください。私個人は引きこもって時間を過ごすことが苦痛ではないのです。むしろ、馴れ合うような事が苦手です。気を遣って疲れるからです。ひとり大空間でボーっとできる時間は最高です。

誰かと一緒に何かを続けることができないので、私には自営業がぴったりです。料理を作ることも合っています。調理はひとり作業で完結できます。いまは紙屋川でお店を開いていますから、アルバイトスタッフを雇っています。この距離感が丁度いい。「私と他者の距離の取り方」は私を保つためのキーワードです。私はこのことによって自分の安定が左右されている事をよく理解しています。瞬発力でイベントを開催したり企画を実行したりの経験はありますが、それは私が欲しがる「変化の衝動」としての現象なのです。「何か変化が欲しい」という衝動がもたらす結果です。

期せずしてソーシャルディスタンスが叫ばれて、それは日常になりました。物理的な距離感と今お話した距離感は違うものですが、物理的な距離感を多くの人が意識するようになったことで他者との距離感も変わったと思います。私には快適な距離なのでこのままでも構いませんが、商業的には問題もあって上手くまとまると良いと思っています。私の店だって席数を元に戻せるなら戻したいものです。感情的な気持ちが密を求めると仮定するなら、論理的な思考は距離を求めるのかもしれません。私だって騒ぎたい気分の時はありますが、制限を超えてまでそうした衝動は生まれません。

私の性分は一般的ではないので何の参考にもなりませんが、ひとりの飲食店主がこのコロナ禍をどう捉えているのかという一例にでもなれば幸いです。飲食店舗への社会的制限は苛烈なものです。この苛烈さが際立つのは、営業時間制限と酒類提供自粛によります。加えて、感染予防対策として席の利用方法や削減、利用者への物理的制限であるアクリル板の遮蔽やマスク会食、食欲や快適さを減退させる賑やかさの禁止などがあります。制限が設定されていない取引業者やその他業種業態との決定的な違いは、モラルの突き付けと誠実さの踏み絵です。協力要請と言う名の制限に応じるか否かを「モラルの規範」に据え、きちんと実行しているかを見回る事でその誠実さを確かめ「踏み絵」としました。モラルと誠実さが確かめられると協力金と言う名の「ご褒美」が与えられる仕組みです。ここには飲食店舗に対する敬意も、配慮も、心配も、自尊心の保障も、微塵もない。本当に心配しているなら何も言わずに給付してくれるでしょう。条件がある以上、それはご褒美です。

私の性分は変化を求めてどうしようもない劣悪なもので、質が悪いものです。私は群れたり、共同活動したり、グループ化されたり、所属したり、つるんだりが苦手です。ですから、飲食店舗たちをまとめ上げたり、皆の声や意見を収集したり、意見書を連名で提出したり、社会的権力を獲得したりができません。向いていません。私は皆さんの為に何もできません。初めに断っておきます。私は現状の制限さえも、変化のひとつとして乗り越えて行くことを楽しめる性分なのです。しかし変化を楽しむ快楽主義と、かかる制限の不実さの指摘は別物です。

「感染拡大が顕著な20時以降を制限する」「酒類の提供を自粛する」この制限はワクチン接種が信じられないほど遅れている事と、医療現場のひっ迫が解消されていない事によって課せられています。つまりは政治的な敗北の煽りです。緊急事態宣言は政治的失敗によります。外交で失敗しワクチン調達が速やかにできませんでした。病床数は多いはずなのに使用できる現状を把握しておらず、現場との乖離を現場の責任として押し付けた結果、医療のひっ迫が生じました。制限からこぼれる人々の感染者数は他国の感染状況からすれば何でもないはずだと政府も高を括り続けていました。その根拠に、内閣官房参与の高橋氏は日本の緊急事態宣言を「屁みたいなもの」と表現し、国内の感染状況を「さざ波」と指摘しています。その上で「これで五輪中止とかいうと笑笑」とバカにしています(これらの表現が元で辞任)。政府は感染抑止と予防に有効な具体策を「人流を止める」こと以外に持っていません。その実現を現場に丸投げすることで責任を全て現場に押し付けました。現場に丸投げた結果の「時短要請と酒類制限」です。

制限対象を主に風俗営業と飲食業に設定しました。専門家会議も「エンターテイメントと快楽の抑制が感染予防に効果的」と判断しました。この設定自体は外れていません。人と人の接触が感染原因なのです。飲酒やカラオケの制限も合理的です。実際、お酒を飲み過ぎて暴言を吐いたり、粗暴になったり、大声で歌ったり、自分をなくす場面を散々と見ています。気も大きくなりおかしな連帯感も生まれます。嘔吐もすれば1人で歩けなくなる事もある。密室でカラオケを複数名で利用した場合に感染者がいれば他者の感染は免れません。「家だろうと店舗だろうと同じじゃないか」まさに、その通りです。同じです。感染リスクは店舗に限りません。それを理解するならば家でもそうしてはならないのです。そしてこれらの現象が制限される共通理由は「感染者の可能性」です。

感染者がいなければどんなに騒ごうが、わめこうが、歌おうが、一向に構いません。なぜならウィルスがそこにないからです。「感染者がいない=ウィルスがない」という事は自明です。これを確認するには毎日のPCR検査か、21日間健康で何の異常もなく誰にも接触していないか、ワクチン接種をして抗体を持っているかです。ワクチンは万能ではないので確実性に欠けますが、感染リスクは下がります。感染者がどこにいて誰なのかが分からない為に、人が集まる機会を挫くという方法が取られています。これらは合理的な判断ですが政治的な失敗の反省はなく、誰も責任を取らず、具体的にどう改善してゆくのかの説明も見通しもなく、現場に丸投げされました。これでは論理的に正しくても現場は感情的になってしまいます。特に「酒類の制限」は反感を買いました。

日本国内では海外ほど感染者数も重症者も死亡者も多くなく、このウィルスの脅威を実感できない事も指摘されています。そのために「ただの風邪」「ウィルスはいない」などの風潮もあります。「不確実性の高い感染者の所在とウィルスの脅威」という事と「楽しみを謳歌する」という事を天秤にかければ、その人がどちらを重く捉えているのか分かります。その時々で都合よく天秤にかけることも多くあります。このバランスは非常に難しくて、水平にはなりません。いつもグラグラしています。ウィルスがいない状態は天秤もない状態です。論理的に考えればウィルスは脅威ですし、楽しみを謳歌したい気持ちは感情です。

告白すると私には制限によって「楽しみを奪われる」という実感が殆どありません。だからか、「楽しみを奪われる」事に繋がる制限への嫌悪感も強くはありません。飲食店でお酒が飲めない事や閉店時間が早い事は困りごとですが、永久にそうではないし、制限の範囲でも楽しむことができるという性分です。何せ変化が快楽ですから、設定が変わる事は考えるきっかけになって新しい何かに気付けるかも知れません。個人的にも店舗的にもこの部分は同じ感覚です。変化や困難があれば乗り越える方法を考えます。私はこれまでの「楽しかった」事にさほど執着はありません。

その事と、「現場に丸投げして責任を押し付ける」という事とは別です。ここをしっかりと理解していただけるといいのですが難しいでしょうか。私はいまの制限を個人的には「構わない」と受け入れられます。それは自分の性分からです。一方で、飲食店を構える身としては今の制限を「配慮もクソもない」と考えています。それは現場に丸投げする手法が傲慢だからです。いまの制限が論理的であっても、政治的責任の放棄と傲慢さは断罪されるべきです。私はご褒美目当てで要請に応じていますが、政治の失敗を見逃す気になりません。

少し話は逸れますが、大阪府の吉村知事は2021年4月23日、27日、28日に「個人の自由を制限すべきではないか」と発言しています。「憲法で国民の自由が保障されているから個人の自由は制限できない」との文脈です。もう十分に制限しておいてよくこんなことを言うものです。要請に応じない人々を念頭に「今は要請で「お願いレベル」だが、法的に拘束できる強権力が欲しい」ということです。こんなことを言い出すから問題はややこしくなります。何が論点だったかも曖昧になります。権力が欲しいという自身の渇望を憲法で国の権力を増大させた結果に享受したところで政治がよくなるわけではありません。強権力を持って国を治める事は瞬発力的には中国やロシアの様な統治を実現させることもありますが、そこに人権はありません。

人と人の接触機会を挫くために、憲法の改憲をして国が個人を制限できるようにすればいいという吉村知事の発想自体が自身の政治手腕の無さを露呈し、責任を放棄している事に気付きもしません。私は私の性分から今の制限は個人的には何でもないと受け入れられますが、国が制限を掛けられるように法的根拠を持つと言うならば話は全く違います。私たちへの制裁を強めることにばかり気を取られて、肝心なワクチン接種と医療体制の改善は現場の責任であるかのように振舞います。良いところだけを自分の手柄のようにして、まずい部分は従わない人間のせいにする。この考え方は本当に劣悪です。

私は「楽しみを提供する側」だと考えています。この「楽しみ」は先に挙げた制限下において削がれるものが多くあります。かかる制限によって「楽しませる材料が少なくなった」と言っていいでしょうか。しかし消滅はしていません。店舗はあるし、営業もできています。この事からも「楽しみを奪われる」ことが問題ではなくて「少ない材料でどう楽しませられるか分からない」という事が問題だということにたどり着きました。ですから、新しい楽しみ方の提案が必要だと思います。これにはセンスも必要ですからポンポンと出てきません。しかし、ユーモアを込めたいと思います。制限に抗い受け入れない事で騒いでも私には格好よくは映りません。その抵抗も反抗もクリエイティブではないと考えています。クリエイティブさは真の反抗と抵抗にこそ確認できると考えています。

真の反抗と抵抗はまず、フレームを理解せねばなりません。そのフレームを理解した上で、そのフレームをどうやって変えてゆくのかを企みます。今何が起きているのか、なぜ制限があるのか、この先の目的は何であるのか、自分に与えられた範囲はどれくらいあるのか、そういう取り留めのないはっきりしない事をたくさん考えます。フレームが分かればルールが分かります。自分に向いていなければ降りてもいいです。このフレームを変容させられることがクリエイターのスタート地点だと思っています。

私はクリエイティブでありたいですが残念ながらセンスがないのです。加えて、人と一緒に何かを続けられない性分です。具体的なアイデアがあっても共有できるパートナーはいません。人にお願いする事も苦手です。私自身がクリエイティブであると言いたいのではありません。逃げるようで恥ずかしいですが、私は真似をする事しかできないと思います。私が憧れるクリエイティブさはDJ TAIZOに確認できたりします。彼はMixcloudで平日月曜から木曜の夜に毎日プレイしています。コロナ禍になりDJとして何ができるのかを考えて発信しています。クラブでプレイできる状況ではないからと諦めたりしていません。できる範囲を自分で切り開き活動しています。彼がその範囲でプレイしているのに、私が制限を受け入れずにプレイすればこの先、同じ空間に同じ面構えで彼と立てる気がしないのです。

飲食店舗への制限要請は苛烈なものです。個人的には変化を楽しめる性分なので行動制限や感染予防対策行為に関しては影響がありません。そういう設定として受け止めています。飲食店としてはご褒美をもらいながら耐えている状況で、その影響は甚大です。ご褒美がなければ潰れていますし、間違いなく形振り構わず営業しています。制限の背景には政治的な失敗がありますが、その説明もなく現場へ感染抑止を丸投げする手法は傲慢だと糾弾されるべきです。制限要請を受け入れず対応する事はクリエイティブでないと考えているので、格好付けで制限範囲の設定内で何ができるのかを考えています。しかし悲しいかな、私にはセンスがないので格好だけで何も生み出せたりはしていません。

現状、コロナ禍において飲食店が儲かる筋は見当たりません。具体的な制限対象である限り制限内で儲かる店舗は限られると思います。かかる制限は「儲からないようにする目的」で設定されています。飲食店が儲からない状況ならば感染予防と抑止が実現するという発想です。この発想が私たち飲食業者の一部に「生きるか死ぬか」という選択を迫るように変換され理解されています。結果として飲食店の対応もバラバラになりました。生き死に判定であれば口をはさむ余地はありません。覚悟を持って挑んでいる事です。誰だってリスクを取って営業はしたくありません。理解して欲しいとは言いませんが、儲からない環境設定を課せられた飲食店舗たちが諦めずに日々をこなしている現状を単純に悪く言われることは心外です。

感染予防と抑止に合理的な判断が下されているとはいえ、これまで社会インフラとして日常の食事を価値あるものとする為に努力、追求してきた飲食店舗も多くあります。その価値を高めるために調理技術の研鑽や、接客サービスの質向上、店舗内装の空間づくりや食器の買い付けや選択、店舗ごとに設定された適切な価格や品質など、どれ程の経験と蓄積を重ねてきたか計り知れません。そうしたこれまでの色々を制限するにあたり、政府が示している態度と姿勢は余りにも不誠実極まります。自分たちが制限を破る事についてまるで恥がないだけでなく、東京五輪開催のことしか頭にない態度には飲食店舗が抱える覚悟の端さえも確認できません。

国や行政は潰れませんから何なりと制限を打ち出します。制限を受ける私たちは違います。私たちはその制限によって廃業も倒産も充分にあり得るのです。好きで選んだ職業です。好きで選んだ自営業です。自分で獲得した経験の全てを投入して開店した飲食店舗です。ウィルス感染抑止のために、まさか、儲からない仕組みが要請されるなんて考えてもみませんでした。それでも諦めていません。少なくとも私は課せられた制限を新しい設定として考え、何とか社会インフラとしての使命を果たそうと思います。次の時代を作る子どもたちが、今を乗り越える大人を見て育ちます。私にはセンスが足りませんが、できる限りのユーモアを込めたいと思います。コロナ禍で奪われたユーモアを取り戻そう。暇だろうと営業します。