これからの飲食店様式に向けて

2020年5月18日ミズタニ行進曲

今日は2020年5月17日日曜日です。テイクアウト営業を始めて1ヶ月が過ぎました。新しい展開が落ち着き、販売数も大きく伸びなくなりました。お弁当は手を伸ばしやすい選択ですが、「テイクアウト利用疲れ」も出ていると思います。やはり、利用する皆さんの気持ちも落ち着かないのだと察します。提供している私にしても、テイクアウト提供疲れが出ています。つまりは、コロナ以前の暮らしへの想いが強く残っているために気持ちはその都度、揺らぎながら静かに諦めるような状況でしょうか。


5月14日木曜日に39県の緊急事態宣言が解除されました。京都は特別警戒地域に指定されていることもあり、解除の対象から外れました。ですが、21日木曜日には解除をする方向で調整していると記事になっていました。緊急事態宣言解除による気持ちの軽さを報道も政府も「緩み」と呼びます。緊張し続けろと言うなら宣言を解除すべきではないのに、気持ちが軽くなって外出した途端に「緩んでいる」と警告される。この状況を「ダブルバインド」と呼びます。


政府は「自粛」を私たちに「お願い」しているに過ぎません。この強制できない弱さを「憲法で人権が保障されているから言えない」と説明しています。この感覚がまずもっておかしい。憲法が保障しているのは同時に生存もだし、健康もだし、福祉もです。つまりは、行動様式の制限を設ける理由は他を保障する為だとはっきりと言えばある範囲は可能になるものです。しかしそれを説明しないのは、憲法が国民の人間生活をきちんと保障する為の「国と国民との約束」だと言い切らない姿勢によると私は見ています。憲法は国にとって課題が多い。国の果たすべき義務(約束)が示されいる。その本質的な要素と意味を説明せずに「憲法のせいで強制ができない」かのような説明を繰り返しています。


強制をすれば補償する必要が生じます。掛けられる制限による損害や影響を国が守るべきだと憲法にはあるからです。これは先に挙げた通りです。つまりは、憲法に則ってきちんとした制限を設ければ国民が納得する補償もセットでなくてはならない。政府はこの点に難色を示しました。結果、対策は後手に回り、ダラダラと嫌々に、「何となく補償せざるを得ない」形で、突かれないと何も出さないような状況を作っています。突かなければならない国民はもちろん疲弊し、輪をかけて「自粛というお願いを聞いて欲しい」となぜか国民に気を遣わせる形を作り出しました。



自粛キャンペーンでは「自粛警察」なる民意を野放しにして、地域や業種に対して連座制を想像させる処置を取りました。ある大学で感染きっかけが出るとその大学は誹謗中傷に晒され、ある業種で感染クラスターが出るとその業種は公に業務が滞る眼差しを向けられ、迂闊な行為で感染者を出したのではと疑われる行動は個人情報までも追及されて「私刑」に合う。政府はそれを助長させるようなコメントを発表し「だから自粛をお願いしているのに」と責任放棄をして来ました。政府は、国は、「憲法に則った国民を守る意思表明」をしていません。感染者への労りはなく「感染しやがって」という価値観を談話などを通じて植えつけて行きました。国民はよく分からないけれども、どこか、静かに、何となく、感染による身体的な病症脅威よりも社会的な責任追及による眼差しを恐れるようになって行きました。


これは一体どう言うことかと言えば、政府の対策が不味いのです。国の対策によって国民同士に争いや、差別や、偏見が鎮まるどころか助長する結果を招いた。クソみたいな種を撒く対策になってしまった。しわ寄せはスーパーの店員や、医療現場や、ドラッグストアや、ホームセンターなどが被っている。コロナウィルスの脅威を丁寧に説明し、憲法に則って国民をしっかりと保障する義務を果たし、その上で国民に要請する事柄があれば出すべきでした。順番が全て逆なだけではなく、国はいまだに憲法に則っていません。その政府トップは「改憲議論を進める」と憲法記念日に発表しています。


こうした流れの中で緊急事態宣言は出されて、そして解除されました。感染者を抑えこめた結果が出たのは政府の対策が功を奏したからではありません。国民がその様に行動した結果です。この結果を「どうであれ、国民を自主的に動かせる成果は政府の手腕だ」と言う人もいます。大きな勘違いです。国民はさらに疲れた。コテンパンに疲れている。健康であるはずがない。何もきちんと補償されていない。「10万円を渡しているだろ?」いいや。勘違いしてもらっては困る。それは国民の初動に対する労いだろう。受け取っても直ぐに消えて無くなる。一部の金持ちや、暮らしが変わっていない人種は知らないが、大多数が168時間程度の慰めにしかならない。私たちは生活をしているのですから、継続できる希望を示して欲しいものです。


「大阪モデル」と言う表現で大阪府が提示した緊急事態宣言解除の条件がありました。「自粛と制限が続けば経済活動が死んでしまう」という危機感から「出口戦略」と名付けられました。吉村知事の先を見据えた眼差しと発言、メディアの取り上げ方などが相まって彼は政治的リーダーシップを持つ存在として注目をされています。知事はヒーローの様に担がれても「政治家は使い捨てでいい」「一番苦しいのは大阪府民です」などと謙虚な姿勢で「今すべき事をしっかりとしてゆくのみです」と繰り返しました。この印象はとても信頼の持てる政治的な人物であると広く支持を集めています。


私は吉村知事にまつわる記事をネットニュースでしか目にしません。新聞に掲載される吉村知事の記事には特別な印象はありません。冷静に見ると、政府が発表している対策を自身の言葉で大阪府民へ向けて伝え直している事が分かります。松井大阪市長の発言も合わさり「こういう時、大阪は一つになれる」と大阪への信頼深さを表明し「府民一丸となって感染拡大を防ごう」と自らが先頭に立って自粛を丁寧にお願いする姿勢に努めました。「疲労困憊している」と吉村知事を心配する声が上がると「きちんと寝ています。大変なのは府民の方です」と府民を慮る(おもんぱかる)姿勢を貫きました。この姿勢が、この態度こそが「大阪」というアイデンティティとプライドに突き刺さった様でした。


「中央政府は何しとんねん。」という言葉が聞こえ、大阪府知事は補償も独自に打ち出して「府民をしっかりと守ります。ですから今は我慢をお願いします。」と大きな声で訴えました。「制限と補償はセット」という打ち出しに失敗をした現政権の対策から府知事は、いや、大阪維新の会は、「政治がリーダーシップを持ち、対策を実行する契機」であることを見抜きました。「政府の失策を重ねない事・府民が求める事を一番に伝える・感染拡大を防ぐ事」を府の対策としてしっかりとシンプルに掲げました。現行政府は憲法を軽視する余りに、国民よりも自身らの既得権や権力の使い方を考えた為に対策が後手に回りました。


大阪府知事が見せたのは「府民に寄り添う姿勢」に尽きます。新しい対策があったのでも、特別なリーダーシップがあったのでもありませんでした。ネットニュースやSNS、テレビのワイドショーなどを通して「寄り添う姿勢」の好感度が「政治的リーダーシップ」へと巧みに変換されました。元大阪府知事の橋下氏も吉村知事を絶賛し、自身の支持層を吉村氏支持へと促すことも忘れていません。政治的PR手法としての「リーダーを作り上げる」という現象を今まさに見ています。


吉村知事が「次期総理」などという派手な見出しで許容されるほど人気があるような刷り込みも、安倍総理が国民に全く関心を寄せてこなかった反動です。安倍氏は、自身に忖度し、自身の都合と権力を増幅させる人間にのみ関心を寄せてきました。この事は数多くの私的権力行使疑惑からもよく知られています。繰り返しましすが、現行政権の最も欠落している点は憲法を軽視している点です。その結果、国民を守る思想がありません。権力行使についての謙虚さも配慮もない。私たちが平和で、暮らしが回っている日常であれば国民は政権運営に関心を持っていなくても構わない雰囲気もありました。


今回のコロナウィルス対策からも分かるように、政策は私たちの暮らしを変える力を持っています。憲法を改憲せずとも、暮らしは一変します。良くも悪くもできる。「国家」というのはその政策によって国民をどう捉えているのかがよく分かるものです。国会議員は法律を作り、制度を定める仕事をします。国民のために制度を作るのです。制度は私たちの暮らしを補償する役割と意味があり、私たちはそれを支持し期待するからこそ納税します。税金とは、制度を保障するための源泉です。さて、税金の使い道はどうでしょうか。私たちは保障されているでしょうか。


何もかもを制度に任せきりにしてはなりません。個々人は自由に職業を選択でき、自身の能力にあった役割によって生活を生み出します。制度はバックアップです。枠組みと言ってもいい。足らなければ改正し、悪ければ見直します。制度を活用して私たちは生活をします。そして多くの場合、できる人ができない人を補えばいいと私は考えています。もちろん、できる範囲で構いません。しかしコロナの影響はこの補う機能も、制度の枠組みも危ういものにしています。コロナウィルスの本当の脅威は、これまで積み重ねてきた制度の多くが機能しない恐れがある点です。


人類は「経済」という仕組みを採用しています。この先も経済は採用されますが、経済にまつわる制度は変わらなくてはいけない危機です。仕組みを維持するための制度変更はあり得ます。私は専門家ではないので経済制度の何を変えたらいいのかまでは分かりませんが、恐らく、上限を設ける動きは出てくるのではと思います。同じように、私たちの生活様式も変わる必要が出てきました。直ぐには変えられませんから、徐々に慣れながら数年後に振り返ってみて「随分と変わった」と理解するのだと思います。コロナウィルスの影響は日常の様式を変える力を持っています。


私たちは自身の日常を取り戻す以上に、作り直さなくてはならない事態に直面しています。コロナ以前の日常は取り戻せないと私は考えています。制度はそれを取り戻すために考えられるのではなく、新しく作り直すために考えられるでしょう。制度が変われば様式も変わります。江戸と明治と大正も様式は異なります。昭和と平成も異なります。平成と令和も異なります。この先も更新され変様します。そしてこの変様は国民保障を基本として定めた制度によってあるべきです。これこそが本質的な政治主導です。


政治主導は制度改革を断行し、生活様式の一変をも可能にします。その目的が利己的、恣意的なものではたまりません。大阪都構想も制度改革のひとつです。私は京都に暮らしているので都構想自体に興味が高くありません。しかし「維新の会」は国政政党としての役割も持っています。日本維新の会は「検察官定年延長改正法案」に賛成の立場です(根本的な問題点は人事権の所在であり定年延長でない気がしています)。国政政党の「日本維新の会」と地方政党の「大阪維新の会」は役割分担を明確にするとして分けていますが、同じものです。維新の会は憲法改憲にも賛成です。維新の会が時折見せる権力思想を私は全く支持できません。大阪府知事の人気が政党支持と判断されれば、制度改革も民意として汲み上げられるように発信されて行くでしょう。繰り返しますが、制度は利己的、恣意的に定められてはなりません。


今回のコロナ対策は後手に回り、国民の不安と不信感は高まりました。これまで政権が抱えてきた疑惑もそれらを高めた要因です。私たちはそれでも、今日を、明日を、生きねばなりません。政権がどんなに堕落しようとも、府民に寄り添う姿勢が好感を得て次期総理と囃し立てられる様を見ても、生きねばなりません。これからの制度が整備されるまで個々人はアイデアを絞り出さねばなりません。政治に向ける眼差しとは別に、私たちは生活の立て直しを個々人が考えねばなりません。これは今回の事態の責任が個人にあると言っているのではありません。コロナに感染しない方法も示され、掛かる制限も(バラつきはあれども)認識されるようになりました。ここから先は新しい生活様式を作り出すアイデアが重要です。そしてそれを肯定的に好意的に、ユーモアを持って実践して行く必要があります。


コロナウィルスは既に、その脅威を病症にではなく社会的な影響力として根付かせました。この脅威を取り除く術を初動で見つけられなかった人類は、経済システムの停滞を呼び込みました。結果として、世界は混乱しています。優先順位を譲れなかった事情はどの国も同じです。その結果、ウィルス蔓延を許しやすい生活様式だった地域では感染爆発を起こしました。それは今も続いています。コロナの後、ひょっとしたら世界は戦争を始めるかもしれません。何年後かの話ですが、世界の秩序は不安定になりつつあります。多くのテロリストも消えていません。


ウィルス感染者数は単純に、検査した人間によってもたらされる数値ですから、感染者がゼロになった発表がそのままウィルス感染者がいない事にはなりません。無症状感染者は検査対象ではありませんから、感染者がそこら辺にいても不思議はないのです。日本は特に、この点で他国と対応が分かれています。不安を解消する為に検査をし始めると、毎日検査をしなくてはならなくなります。それは医療崩壊を生むだけでなく、人間の営みも壊すでしょう。感染爆発を生まない方法は「人と接しない」です。


緊急事態宣言によって(自粛とはいえ)、行動を抑制してきた結果で感染爆発を抑え込めています。感染爆発を防ぎ、私たちは生活様式を変様させる必要が生じました。制度は追いついていないので、私たちは個々人でアイデアが必要となりました。貰える補償は全て受け取るべきです。諦めずにアイデアを出すことで次の制度設計にも関われるように政治的関心も持てるといいなと思います。


緊急事態宣言解除による人出増加を気にした西村経済再生担当大臣は「気の緩みがある。再び感染者増加になる。」と警告をしました。私はこの「気の緩み」という政治家の発言が不愉快です。始めにも指摘しましたが「自粛」をお願いするだけの立場が、何を偉そうに言う者かと腹さえ立ちます。「宣言解除によって気が軽くなりがちです」となぜ言えないのか。我慢してきた国民に配慮もない。第二波が起きることを前提にし、その言い訳を今から国民のせいにする為の発言。「気の緩み」と言う表現を政府がする限りは、国民を守る意思がないものと私は見ています。国のために我慢しろと言わんばりの姿勢にはうんざりです。


イルピアット紙屋川は少し店内改装を考えています。まだ大工さんにきちんと相談出来ていませんから計画とまでは言えませんが、私の中では考えがあります。それが実行されて施工が完成したら通常営業へ戻してゆこうと思っています。それも段階的にですし、ご利用に際しての設定も新しくする予定です。コロナ前に戻れない覚悟を決める内容ですから、ご利用できるお客さまの設定も狭くなると思います。まだ何も決まっていませんが、試行錯誤しながら試しつつ決めてゆけたらと思っています。私は新しい飲食店のあり方と様式を作れるといいなと思っています。イルピアット紙屋川が通常営業になるまでには、もう少し時間を頂くことになりそうです。何をするのか楽しみにしていてください。健やかにお過ごしください。トニーは元気です。


トニーミズタニヨシオ