ミズタニ行進曲 ギャンブル化する選挙2025年
久しぶりにミズタニ行進曲へ投稿しようと思います。4月に著書を自費出版してからは書く機会も意欲も見つけられずにいました。背景には、お店の営業に注力してきたことも挙げられます。1月の連休以降、充実した時間を過ごしてきました。皆さんのご支援や眼差しに支えられた時間です。この場を借りてお礼申し上げます。ありがとうございます。
2025年、夏。つい先日、参議院選挙が終わりました。各党、それぞれに有権者へ思いの丈を訴えた選挙戦だったと思います。関わった全ての人に「お疲れ様でした」と言わせてください。投票に行った人、行かなかった人、有権者もそれぞれだったともいます。今回の参議院選挙の全国平均の投票率は58.51%、京都府は58.73%でした。選挙前に私が知人に話していた「投票率60%弱」という見立ては当たりました。
前回の衆議院選挙(2024年10月)53.85%、最近の都議会議員選挙(2025年6月)47.59%、各地方選挙などの投票率は相変わらずの数字です。都議選挙や地方選挙では大枠の国政に影響を与える政策立案には距離があります。ですが、国政選挙は性質が異なります。有権者のどれくらいが「参議院議員の任期6年」を知っていて投票したかは分かりませんが、今回の選挙は有権者の不満や態度を示すいい機会として作用しました。
選挙に行く。このこと自体、義務だの権利だのといろいろな形で議論がされてきました。私も以前は、投票に行くことの重要性を考えていました。いまは少し異なります。投票に行かなくてもそれは「民意ではないか」、と考えるようになりました。態度を示さなければ自身の立ち位置を確認できない点は認めます。この「立ち位置を示す」=「考えを持つ」=「関心を持つ」ということはどういうことなのか。それを確認できないとどういうことに繋がるのか。私は選挙について、ギャンブル性が増してきたと見ています。その話をしてゆきます。
投票によって自身の態度を示す。わかりやすい話です。同時に、自身の態度を持つということはどういうことでしょうか。有権者は「態度を持つ」ことを求められている。なるほど。社会の成員として、自身が社会でどのような位置付けでいるのか(いたいのか)を認識するためにもいい機会になりそうです。「自身の態度」によって投票をする。この「自身の態度」とは、人との関わりにおける「キャラ設定」のようなものだと思います。つまり、社会というフィールドの1プレーヤーとしての属性設定。プレーヤーは属性設定から始まります。
では、この属性設定が支持政党や候補者選びに繋がるとして、プレーヤーは「どんな社会がいいか」を考えます。実際には「どんな社会がいいか」を考えてから属性を選ぶのでしょうけれど、どんな社会がいいかなんて分からないこともあります。属性設定から社会を考えるというのが、実は、一般的ではないかと思うのです。各政党や候補者の癖や性質から、自分の好みの属性を選ぶ。その個性や性質の好みはまさに、「攻撃力」・「守備力」・「得意な技」・「重要なアイテム所有」・「ゲームクリアの回数(経験値の豊富さ)」・「魔法の性質」・「キャラの容姿」・「破壊力の大きさ」・「パーティーの規模」など多岐にわたります。これらの「好み」からどんなプレイを「してもらうか」を決めます。
とても重要で、とても原初的な確認ですが、「自分の態度」=「自分の属性」まではいいのです。しかし「プレーヤー」=「有権者」ではありません。社会というフィールドでプレイするのはあなたが選んだ「キャクター(候補者)」です。私たち有権者は自分の考える自身の属性から好みのキャラを選び投票します。そのキャラが選挙で選ばれると、社会フィールでそのキャラが活動をします。考えていた属性に従って活動するかは未知数ですが、そう期待します。
私たち有権者は「候補者」=「キャラクター」という選択をしますが、どんな社会になるのかは各候補者の結果次第です。ですから「どんな社会がいいか」を設定し考える定型行動より、「どんなキャラを選ぶか」による効果の方がはるかに大きいと考えています。これが選挙制度にも反映されていて、「小選挙区」と「比例代表」があるのは頷けます。
「小選挙区」はキャラ選択です。「比例代表」は属性選択。小選挙区のキャラと比例代表の属性が異なることは多くあります。私もそうです。これは自分の生活領域に立ち上がったキャラが気に食わない場合において、よくよく生じる現象です。キャラは嫌いだが、属性は好みである。いまの選挙制度は問題点も多くありますが、この点においてよくできていると思います。
比例代表の場合、その政党が掲げる比例リストが好みでなければ票を集められません。属性が良くてもキャラに魅力がない場合、社会というフィールドでプレイしてもらうには退屈だと見なされてしまう。影響力が分からないキャラは(ミステリアスでない限り)魅力として分析されません。政党の属性は印象操作によっても作られますし、歴史や過去の発言によっても支持されたりします。誠実さや正しさよりも、社会にどういう影響を持つのかという期待感が選ぶ我々を引き寄せることもあります。
これらを踏まえた上で、今回の選挙から「ギャンブル性が強まった」と私は見ています。有権者である自分が選んだキャラが当選するかどうか。自身が設定した属性を持つ政党が影響力を持つかどうか。これらが上手く作用するかどうか。社会には不満が広がりました。これは「社会に暗雲が立ち込めてきている」と言えます。ゲーム世界だと「悪がはびこり始めた」となるでしょうか。この暗雲こそが、今回の選挙テーマでした。この暗雲をどう設定し、どうコントロールしてゆくのか。
この暗雲に対して明確なメッセージとキャラ設定をした政党が伸びました。言い換えれば、社会の暗雲を危惧する人が多く投票に行きました。自分の支持するキャラや政党が当選するかどうかというギャンブル性。そしてその先にある社会変化のギャンブル性。暗雲を放置して今のままでも困る。かと言って、暗雲を払う払い方が暴力的でも困る。候補者というキャラたちに自分の好みはいるだろうか。属性設定はもう少し包括的に自分に近いものはないだろうか。
有権者は投票権というチケットを行使して投票します。候補者たちはこの時だけ有権者におもねる。有権者の中には選挙になると一時、面接官になったような気分を覚える人もあるでしょう。無料配布された景品交換券を使う時のように「来てやったぞ」感を満載にして投票する人もいるでしょう。しかし、有権者たちはそういう気分にならない方がいいのです。偉くなった気分で投票する人は、この「選挙」という仕組みにまんまとハメられている人かと思います。
「自身の支持する属性やキャラを設定できたら投票する」との解説は、選挙の本質を説明していません。投票にまつわる性質の一つをわかりやすくしたものです。選挙の本質はなんでしょうか。突き詰めると、そこには強い責任論が横たわっていそうです。私はその責任論が有権者に向けられている点についてしっくりきていません。選挙結果が有権者の民意であり、態度の結果であることには違いまりませんが、当選議員たちが初期設定のまま活動するかは疑問です。また、支持を集めた政党も、結果を持ってその性質を変容させることは過去に多くありました。選挙にまつわる責任論こそ見直されるべきではないか、という思いから「投票に行かなくてもそれは民意」と述べた次第です。
選挙がギャンブル性を強める時、社会には決まって暗雲が立ち込めています。責任の所在も含め、選挙の勝ち負けに注目が注がれるべきではないと思います。注目すべきは、選出され支持された政党が何をするかです。どう変容してしまうのか。また、変容しないのか。立法府としての責任をどうやって果たし、私たちの声に耳を傾けるのか。どんな社会をイメージして整えてゆくのか。これらの点について私たちは日常的に議論できているとは言い難い状況ですね。
もっと身近な問題として、制度を考えられたらいいのになぁ。朝起きて身支度をし、出勤して労働し、疲れを覚えつつも健康で帰宅する日常。衣食住に極度な不安を覚えずに過ごせる快適さ。たまの娯楽を謳歌して、遊興をし、馬鹿なことも笑って過ごす。エンターテイメントも芸術も音楽も食事も、この日常にあります。
町内であっても、イオンモールであっても、レストランであっても、電車の車両であっても、たまたま居合わせた人々との親和性は保証されていません。このことは、人々の性格やキャラが異なることを説明しています。身近な集団でさえ整い難い。社会という大きなフィールドになれば尚更でしょう。その環境で折り合いをつけて暮らして行けるように制度があります。
選挙は終わりました。結果を受けて、自身が選んだ属性やキャラクターがどんな活躍をするのか。また、選んだ設定が届かなかった場合も、選ばれたものたちがどのように活動するのか。はたまた、何の設定もなく投票をした人も、投票しなかった人も。選挙結果を受けて制度は少しずつ変わってゆきます。その変化の模様を考えてみてはどうでしょうか。同時に、皆さんが政策などに気持ちを奪われて議論を加熱させるあまりに、対人関係を壊したりしないよう祈ります。選挙は、選挙です。期待し過ぎることもオススメしません。その期待はギャンブル化してゆきます。
今日のように暑い京都市内。ランチタイムに人はほとんど見えません笑。それでもこれが私の日常です。上手く行かない日も、上手く運ぶ日もあります。この濃淡は制度のせいではありません。私の実力だと受け止めています。策を講じていますが、いやはや、結果はすぐには出ないものです。今回の一票は社会を変えるためでしたか?それとも変えないためでしたか?いずれにせよ、一度の選挙でガラリと変わるものではありません。私の策も、一度や二度、三度四度で結果が出るものではありません。失敗しながら社会は変化します。成功しながら社会は進みます。私も皆さんも、きっと同じです。
振り返ってみると、随分と変わったなぁ。そんな風に社会は動いています。この変化で悲しむ人が少ない方がいいと思うばかりです。願わくば、犠牲という言葉を使わずに社会のフィールドで各人が過ごせますように。暑い夏が続きます。