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ミズタニ行進曲「喫茶店をはじめた理由」

2026年3月16日お知らせ

2026年を迎えて
 
 今日は3月16日火曜日です。年末年始の無休営業後に二週間の連休をいただきました。2月13日にNちゃんが引退、そして3月14日にはゆうかさんが引退しました。2月7日からは喫茶モーニング営業の試験営業が始まり、そのまま本営業へと移行。今年に入ってからの大きな出来事を書いてみるとこのようになりますが、細かくはもっといろいろと巻き起こっています。

「連休のできごと」

 まず、二週間の連休ですが、山形、秋田、岩手、東京、岐阜、広島をめぐりました。この詳細を書きまとめていたのですが、細かく書きすぎて筆が止まってしまいました。無念です。山形では同級生の恵子と根付きセリ鍋を食べました。肘折温泉に三泊し、そこで雪下ろしの作業を目の当たりにします。この経験は、喫茶営業を始めるきっかけにもなっています。豪雪地域での時間は、刺激と静かな内省を与えてくれました。

 秋田では米農家の高橋さんと出会い、岩手では雰囲気のある居酒屋や喫茶店を見つけられて充実しました。東京では同級生ののぶさんと喫茶をし、彼が上梓した書籍の話などを聞きました。夜は後輩の貴雄の家で食事を作り、招かれた彼らの友人らと教育について語り合いました。

 岐阜県は安八町へ行き、イシコさんのアテンドで町内を見てまわりました。ロームカウチ氏の作品が街の至る所にあり、町全体を美術館に見立てた試みも伺いました。安八町の可能性を拡張しているのはイシコさんの尽力です。町議でもあるイシコさんは、町をいい雰囲気へと導いています。町民の皆さんの向学心と好奇心にも熱い気持ちを覚えました。

 一旦、京都へ戻り牧先生と池田さんを交えて糖尿病についてのレクチャーを受けました。対談形式で展開された内容は、年内に小さな冊子にもなる計画のようです。私が11月から展開した糖尿病予防食についても重ねてお話しました。私は昨年11月から自分の身体を使って壮大なデータ取りを行いました。その結果、体重は8キロ減。体質改善にも一役買っています。「瘦せすぎじゃないか」と心配されますが、いまが一番コンディションは良いと思います。

 広島にはヤマケンと会うために足を運びました。彼の近況報告を聞きつつ、喫茶店をはしごしました。彼のこれからについて、私のこれからについて、そんな話をしました。飲食店が持つサービスの難しさについて、「どの企業も社員研修に飲食店を経験させることがいい」と意見交換しました。彼はアパレルで活躍していますが、現場での立ち回りは飲食経験が活かされていると言います。

「雪下ろしと喫茶店」

 ざっと二週間の連休について書きました。非常によい時間でした。行く先々で「喫茶店」へ行きました。そこで確認したのは「場をつくる」ということでした。雪が積もる道の先にある喫茶店にもお客さんはいて、なんと言っても、お店がいつも通りに開いている。この日常を守る姿に心打たれました。自分に足りていないのはこの点だと思いました。

 併せて、雪下ろしです。雪下ろしはお金になりません。その作業をしても給与は支払われません。自分の建物ですから当然なのですが、この点についてもう少しきちんと理解をした方がよいのではないか、というのが私の問いでした。雪下ろしは日常をつくるために必須です。住環境を整える作業です。なくてはならない。誰かがしなくてはいけない。しかも重労働。早朝から作業しています。日常を守るためにです。

 私は京都でレストランをしながら、売り上げを意識して働くことに疲れ果てていました。もう、うんざりだ、と。どうすれば料理を続けて行けるだろうか。どうすれば売り上げを意識せずに働けるだろうか。どうすれば「雪下ろし」のような作業ができるだろうか。私は日常を整えるための場所をつくりたい。私の調理技術はそのために活用したい。

 ここで、「雪下ろし」と「喫茶店」が重なりました。喫茶店はまるで雪下ろしのようだ。ほとんど儲からない。傍から見れば趣味のようにさえ映る。しかしその実、いつもの喫茶店が開いているからこそ、利用する人たちの「日常」は整えられているのではないか。喫茶店は日常を整える装置のようだ。喫茶店がある地域は、豊かである。

「喫茶店は第三の場所」

 子どもの頃、親が連れて行ってくれたモーニング。たばこの煙、テーブルゲーム、新聞の匂い、コーヒーの香り。この記憶には憧れが重ねられています。大人たちの朝は、子どもが立ち入る隙間のない印象でした。大人たちの時間。大人たちのくつろぎ。なるほど。大人たちはモーニングを利用しながら、自分の日常を整えていたのです。

 私は人々の日常にこそ、たくましさと文化があると思っています。喫茶店は文化装置だと言っていい。大きく儲かりはしない代わりに、その役割は社会や文化を支えている。大人たちが安心してくつろげる場所。家と職場と喫茶店を考える時、喫茶店は第三の場所。サードプレイスです。ハーバーマスが言う「公共圏」だと思います。グラムシが言う「ヘゲモニー(文化装置)」だと思います。大人たちの日常を支える第三の場所。私はどうしてもそういう場所がつくりたい。
 
 大学で社会学を勉強し、卒業後も自分のレストランを通じて社会学の社会実装について考えてきました。レストランの経営を考える時、どうしても運営のことが頭から離れません。ですから、社会学実装の方法もわかりませんでした。いまでも経営のことを考えますが、喫茶店を始めてからはとても思考が楽になっています。「一条通り紙屋川には朝8時からのモーニングがある」ということだけでいい。喫茶店の試みは、私の悲願であり、社会学の社会実装に他なりません。

 
「世界は投機的な思考で染まっている」

 喫茶店は儲かりません。その実績で家が建てられるわけでも、クルマが買える訳でも、豊かな暮らしができるわけでもありません。2026年現在の社会状況を考えてみると、その運営はより一層困難なものになっています。私が各地でめぐった喫茶店のどこもが、店主さんは高齢者でした。彼ら彼女たちが日常を死守しています。私はどんな困難な状況でも、場所を守るその姿勢こそが社会的インフラだと考えています。

 少し難しくなりますが、社会の潮流は「投機的」です。投機的とは、「手にしたものが手にした時よりも高値で取引されること」をいいます。簡単な説明ですが、概ね間違っていません。これに似た言葉で「投資」があります。投資的とは、「手にした物の価値が広く理解され、人々や機会によってその価値が向上すると期待すること」です。単に価格が上がるだけではなく、評価が文化資本などに関わります。投機と投資は重なる部分もあります。

 2026年現在はとても投機的な社会です。マクドナルドがハッピーセットで景品にしたポケモンカードの騒動は、「投機」の要素を放置したことで社会現象になりました。いわゆる転売ヤーは、投機的な利益を目的にしています。その商品を育てる意思などはありません。しかし、投資には育てる意思が入ります。ただ、投機と投資はきれいに分かれていません。投機寄りの投資も、投資寄りの投機もあります。SNSなどを見渡しても、投機的な動きや働きを確認することは容易かと思います。

 私は「投機的な社会になった」と指摘はしますが、批判はしていません。否定もしていません。社会現象には意味があり、その時代や世相をよく表します。「投機的な社会はいまさらではなく、以前からそうだった」という意見にも賛同します。現象は突発的には起きません。静かに、徐々に、無自覚的に、自然の成り行きのように、現象は立ち上がります。いまは、正確に言えば、「投機的であることを多くの人が受け容れている状態」です。

「これでいい、と民主主義が選んだ結果」

 投機的な態度や思考は個々人だけではありません。国家元首や国家そのものも、覇権的で帝国主義的な色を強めています。アメリカ大統領のドナルド・トランプ氏に代表される態度は、その典型と言っていいと思います。これも批判をしているのではなく、指摘をしています。「そうではないか?」という指摘です。多くのアメリカ国民が彼の思考や態度を支持した結果、選挙で大統領になっています。そう、支持された結果です。

 私たちは日常を過ごし営む上で、投機的な視点も欠かせないと思います。同時に、投資的な活動も大切です。ただし、それらは日常生活が安心で安全なことが前提なのです。衛生的にも、精神的にも、環境的にも不安定であれば少し先の暮らしはままなりません。大切なことは、日常の場所です。そしてその営みです。

投機的な思考が強まれば、手にする事柄の価値には敏感になります。しかし、そのこと自体には意味も価値もないのです。手にしたものの価値が不安でしかない。高値になれば安堵し、下がれば不安になる。その強迫観念に似た思考は遠ざけるほうがいいでしょう。ものの価値は魅力的ですが、経済合理性としてもあまり意味はないと思います。

「IT革命が果たした結果」

 IT革命によってもたらされたネット社会。この革命の本質は、「個々人の商品化」でした。私たちひとり一人が商品になります。どのように評価されるのか、価値があるのか、フォロワー数は、いいねの数は、閲覧数やアクセス数は、その影響力は。インフルエンサーに代表される存在は、個人がメディアの権力を手にした形態です。

権力とは単に影響力を持つだけではなく、その意思決定において人々を扇動することも可能です。個人が商品化され、その価値が影響力換算され、より強い影響力を欲する構造の出現。より強い権力を求める思考は、投機的志向との相性がいい。資産が多いとか国家権力を握っているなどの「強い権力」は、個人の影響力を取り込みながら大衆扇動とプロパガンダを効果的に広めます。この点は、エドワード・W・サイード氏が『知識人とは何か』(平凡社ライブラリー)のなかでも指摘しています。

「大人のあきらめの悪さと日常」

個々人が商品化され、権力志向が強まり、社会が投機的である時代です。この時代、この世界で、私個人が何かを変える手立てなど持てるはずがありません。特殊な魔法が使えても無力に等しい。ガソリン値段が突然30円の値上がりをしても止められません。ロシアによりウクライナへの侵略も、イスラエルによるガザへの蹂躙も、アメリカとイスラエルによるイランへの攻撃も、私は見ているだけです。その戦争や侵略を思い留まらせることもできません。ラジオや新聞やネットを通じて流れてくる情報を受け取ることしかできない。

だからこそ、私は考えます。「私たちは日常を諦めない」と表示しなくてはならない。ホルムズ海峡が閉鎖されて、石油や液化天然ガスが入って来なくても「私たちはたくましく生きる」という姿を示し続けなくてはなりません。大人たちが諦めの悪い存在なのだと、子どもたちに見せつけなくてはなりません。どんなに戦争が起きようとも、何とかモーニングを提供できるくらいの場所を日常に持っていなくてはいけない。

権力者たちがうんざりして、手ごたえのない事にうんざりして、いい加減に戦争をやめなくてはならないと思うくらいまで、思い切り日常を営み続けなければならない。私たちも、日常の投機的志向を遠ざけ、権力との距離を取り、好きなようにはさせないという態度と暮らしを見せつけなければならない。権力者たちが、日常を諦めた人々を消耗品のように扱うことは歴史を振り返ってみても明らかなのです。

「お金持ちは偉くありたいと願う生き物」

お金持ちが常識的で、倫理的で、誠実で、正しいのではありません。彼らの一部はただ偉そうに振舞っているだけなのです。そのようにしないと、自分の権力は意味を失ってしまう。自身の無教養を埋めるように、芸術に親しんだり、舞台を鑑賞したり、芸能人と交流を図ったりして何とか取り繕っているのです。北大路魯山人が提唱した「美食」を「グルメ」と勘違いし、芸術かぶれになって美味しいものを食べて自慢げに過ごすしか行き場はないのです。

そういうことを多くの人が見抜いては困るのです。そうしたことを気付かれないように、それらから遠ざけるためにも、タコツボ化したコミュニティを形成して、「仲間になるための条件」のような暗黙知を作っては踏み絵させている。自分たちと同じ権力志向で、投機的で、影響力を持つ者同士でグループを作り安心します。

こうした時代と世界です。日常生活を細々と営みつつ、何が起きているのかだけきちんと見聞きしながら、諦めの悪い暮らしを続けるのです。どんな日常がいいのか。どんな暮らしがしたいのか。未来は定まっていません。自分の頭で考えて決めるしかありません。与えられる環境ではなく、自ら雪下ろしをしなくてはならないと考えています。

雪下ろしは権力とは無関係です。日常生活は投機的ではありません。モーニングサービスは朝8時からです。私は引退したスタッフたちにもきちんと背中を見せていたいです。相変わらず諦めの悪いトニーがいる。喫茶営業まで始めたらしい。なぜだ、どうしてだ。なるほど。日常を守りたいのか。喫茶店にはそれができるのか?さて、どうでしょうか。大忙しの喫茶店にはなりません。イルピアットの喫茶は、静かに、日常を営む人に寄り添える第三の場所でありたいと思っています。

喫茶店には憧れがあります。あの場所に喫茶店を展開できたら、予定よりも少し長く料理を作っていられるような気がしています。特別なものはありませんが、手作りをご用意してお待ちしています。お金持ちも、権力者も、貧乏人も、学生も、同じお客さまです。同じものしかご用意がありません。悪しからず、ご了承ください。