Nちゃんへの手紙。2026年2月13日金曜日に彼女は引退しました。
江沼ほのかさんへ
6年間弱という長い時間をイルピアット紙屋川のスタッフとして働いてくださり、ありがとうございました。家族で食事に見えた際に「アルバイトできますか?」と手を挙げた時の君をよく覚えています。19歳の1回生でした。
当時、世の中はコロナ禍一色でした。この先にどうなるのか見当もつかない日々が始まったばかりでもありました。お店もどうなってゆくのか分からない状況の中で、飲食店アルバイトに身を置くことを選んだ君の心境は未だに分かりません。この「未だ分からない」という点。これが「江沼ほのか」の醍醐味でした。
これまでのどのアルバイトスタッフたちとも違う性質でした。自身の京都大学在籍さえも口ごもって言いにくそうにしている姿を印象的に覚えています。それがなぜ言いにくいのか、在籍大学によるレッテル張りを嫌うからなのか、「すごいねー」と言われることを回避するためなのか、よく分かりませんでした。胸を張って「京大です」と言えば済むことなのに、きっと私には分からない何か葛藤があったのかも知れません。
これらのエピソードが表しているように、Nちゃんを捉える時はひとつ立ち止まる必要がありました。私の中で、君と対峙するときは一拍置く。頭に浮かんだ言葉をそのまま伝えると、違う解釈がされるかもしれないと考えました。京大出身を言いあぐねる君です。自ら選び受験し、獲得した在籍なのに。人から「自慢していると映らないよう」警戒していたのかも知れません。君には、人よりも先に回り考える判断の速さがありました。
この思考の速度は魅力でしたし、また、難しさでした。答えを導く速度が速いという事は、人よりも時間を圧縮できているようなものです。君は生き急いでいる訳でもないのに、その速度が抜群でした。私も現場では判断が早く、言葉を正確に選ぶため冷たい言い回しになります。正確できちんとした指示や言葉を使うように心掛けているため、その言葉の長さによって私の感情は推し測られるようになってしまいました。
私も君も、感情を外に出しません。言葉が短く端的になるのは、答えが明確でゆらぎが無いためですね。文章になる時は、きちんと説明が必要だからですね。的確できちんとした言葉を使うとき、そこに感情を含ませる作業は文学になります。私たちは文学者ではありませんから、こうしたロジカルなやり取りは気持ちがいい。その者同士では。
そんな私でも、Nちゃんには一拍置く。私が的確な言葉を君に投げかければ、それにきちんと即応するキミもまた、的確なものになる。このやり取りに上下はなく、ともすれば、言い合いになってしまうことは必定でした。やり取り自体に上下はないものの、立場には上下がありました。この点が、私は君にきちんと説明をできなかった。なぜか。君がフェアを望むと考えたからです。立場の上下があってもやり取りはフェアがいい。この矛盾を私は抱えてしまった。
この点について、私はNちゃんに謝らねばなりません。見くびっていたのではないのです。ただ、君とは揉めたくないなという直感でした。キミと揉めれば、バチバチになるだろうと思いました。お互いに引かない。謝らねばならないのはこの点です。バチバチすればよかったですね。6年弱の関りの中で唯一、私が君に吐露したのは謹慎の一件のみでした。
本当はもっと向き合ってバチバチにすればよかったのかも知れない。ただ振り返ると、君はそこまで強くはなかったと思います。2025年は強くなりましたね。あっぱれです。見事です。江沼ほのかは、江沼ほのかになりました。私はキミとの関りで様々な感情を学びました。距離感も、言葉の選び方も、関係性の在り方も。私の人生に大きく強い印象を残しました。
これまでキミほど、私に考えさせたアルバイトはいません。キミほど、眼を見張るくらい素晴らしく成長した人間もいません。キミは見事です。本当にそう思います。きちんと引退まで来てくれました。きちんと送り出せることを、只々、嬉しく思っています。
コロナ禍から始まったアルバイト。難しい舵取りを強いられた飲食店にあり、心強い存在でもありました。キミのインテリジェンスは人を励まします。私の鋭さも、君の鋭さも、人のために使いましょう。自分のためではなく、他者のために。私たちには共通した部分があります。この正しさを社会の役に立てていこう。
江沼ほのかはこれからも成長します。面白い。実に面白い。この先の人生を捨てないで生きてください。キミにとって見える風景がつまらなく、退屈になったら話を聞かせてください。私はまだここにいます。キミが退屈だという、分かり合えないという、その世界をその時にはバチバチにやり合おうじゃないか。
私にとっての論敵でした。キミという存在無くして、いまのイルピアット紙屋川はありません。今度こそ胸を張ってください。自分の歴史に自信と誇りを持ち、他者からのいい加減な評価など耳を貸さなくてもいい。キミは見事にやり遂げたのです。
一緒に働いてくれてありがとう。誰よりも効率的な作業を心掛けて働いてくれていたことを知っています。キミの努力と真摯さを忘れません。これからも存分に輝いてください。いつも応援しています。
おつかれさまでした。ありがとうございます。
イルピアット紙屋川店主 ミズタニヨシオ