新年はNHKばかり見るけれど、とても勉強になる。

2019年1月4日ミズタニ行進曲

新年は妻の実家でひとり深夜にNHKばかり見ています。言い換えると、見てしまう。新年に放送される特番の質が非常に高くて、一年で一番勉強になる時間かもしれません。私は普段、質の良い情報と出会っていません。ネットニュースを見たり、Amazonで買い物しながら新商品を知ったり、日々、主体的に得られる情報源は非常に脆弱で偏っています。それでも、社会への関心が消えないのは大学で学んだ事と、イルピアットで展開される日々の刺激によるものと確信しています。

正月に放送されるNHK特番は、これからの一年をかけて私が挑む課題を提供してくれます。放送で気になった学者の著書を片っ端から購入します。結論、読み切れずにイルピアットにも置いているのですが、自分が興味関心を寄せた時間を忘れてしまわない為にも著書の購入は非常に重要です。今年もまた例外ではなく、いくつもメモを取りました。甥っ子、姪っ子、娘、子どもたちの相手を尽くした連休でしたが、深夜のこの時間だけは毎日欠かさず自分の興味関心ごとを自慰行為のように楽しんでいます。京都から持ってきた書籍も読んだり、1月メニューを考えたり、文章を書いたり、テレビを見たり、寝る4時間前の充実さは一年で一番密度があるのです。この正月もとても満足です。

私は欲張りなので、やはり、機会があるなら勉強がしたいのです。普段はなかなかこうした時間が作れません。読書への関心も、学習への興味も、文章を書くことも、意欲や意思が重なるタイミングが普段には出現しにくくなってしまいました。そうした時間を規則的に作れば良いかというと、きっと、時間があるだけでは実行するには難しいのです。それほどまでに、正月特番で出会うような知的好奇心をこじ開けるような出会いが遠くなりました。尾場瀬先生が京都にいない事も非常に大きいです。私の知のバランスとも言うべき存在で、先生の存在に非常に甘えていたと痛感しています。

イルピアットでも以前ほど政治的な、時事的な、倫理観の定義をめぐるような、常識の外輪を議論するような、そんな話は聴かなくなりました。これは私の変化なのかもしれませんが、「こうでなくてはならない」という議題を詰めることへの意義が、決まって誰かの利益になるような気がしてしまい気が乗らなくなりました。結果、そうした結論ありきの話を遠ざけたのかもしれません。議論とは、怖がらずにそうした偏見を表明させることこそ意義があります。出された偏見とがっぷり四つに組み、理念と理想を語り合い、偏見のアウトラインを浮かび上がらせる事も効果的でした。しかしいつからか、偏見を浮かび上がらせ相対化させる為に出現させた理念や理想が「トニーの思想」かのように思われる節も出現しました。私は理想を思想に持ったことがありません。

少し難しい話になりますが、私が社会現象一般を分かりやすく説明するときに「例え話」を作ってみせます。その例え話は「実例」ではないことが多いのですね。いわゆる、「分かりやすくする為にトニーが作った話」です。国の沖縄政策を批判する時に、「沖縄の自治権が侵害されている」と言えば「大枠で国家の利益や国防を叶えることの方が重要だろう」などと言われます。

これも「例え」だと思って聞いてくださいね。

続けます。私は沖縄の自治権が国によって歪められた話をしているのですが、いつしか、問題は「沖縄の犠牲やむなし」という事の「是か否か」という事にすり変えられてしまいます。これはなぜかと言うと、「沖縄の自治権」という言葉の理解が整理されていないことによります。ですから、私は決まって「自治権」について説明をします。この自治権について真面目に説明をすると「それは理想や理念であって現実は違う」と言われてしまう。「国家の自治権の方が上だ」とも言われかねない。私はあくまでも「沖縄の自治権侵害」を話しているのであって、権力の大小の議論をしていないのですね。しかし人によっては、「権力の大小」と「自治権の保証の話」はごちゃ混ぜになって「権力の大きな方が正しい」という論調を信じて疑わない。こうなると、定義づけられた自治権も、侵害された沖縄も、全く議論に上がってこなくなります。

私はだからこそ、「自治権」について熱弁を振るう結果になりますが、「理想論だ」と退けられます。まったく、自治権の説明に理想なんてないんですよ。保証されている内容を説明しているんです。例えば、スマホの契約書面が「理想論」だと解釈して契約内容を勝手に破れば、書かれている内容に準じて違約金だの契約解除だの発動されます。このことに異論はないはずなんです。沖縄も同じです。東京に認められている効力と等しく、沖縄にも認められているはずなんです。自治権が侵害されている事態を黙認すると言うことは、自分の自治体にも同じ現象を認めると言うことでもあるはずなんです。これを言うと今度は「拡大解釈だ」「大袈裟だ」と言われます。一体、何なんだ。「どうしてそんな事が言えるのですか」と尋ねても明確な回答なんて聞こえません。聞こえたとしても差別的なメッセージしかないのです。自身の自治体が沖縄よりも上位であると言う思考こそ、単なる妄想だし理想なんです。

あ、これは本当に、単なる例えで言っています。

つまりは、ある物事に説明を加える時、私がお話しする内容が「皆も知っているが、(そのように)できていない事」である場合は「理想論だ」と言われがちです。私は理想を説いているのではなく、「いかに出来ていないか」をよりきちんと理解して欲しい思いで話しているにすぎません。百歩譲って、理想でも構わないです。私が説明すると「トニーはそうなって欲しいんだね」などとも言われます。違う。そうなって欲しいなんて言っていない。だからと、解決できるとも言っていない。あまりにも単純に「ある物事」を解釈してしまう事が「怖い」だけなんです。その単純な解釈で物事や制度を理解して行くと、大きな部分で社会も困るし、文句ばかりを生み出す結果になってしまう。現に、そうなってしまっています。どうした、ユーモアは。表面的な解釈をするならばユーモアは持っていて欲しい。

ユーモアには寛容さがあります。こう書くとまた「理想論だ」と言われそうですが、ユーモアとは寛容さなのです。そして寛容さだけでもない。笑いもあります。表面的な解釈と理解での日常が必要ならばなおさら、ユーモアを持って欲しいです。直ぐに怒らないでください。他者の浅はかさにツッコミを入れてください。いったい人は何を目指そうとしているのか、私にはよく分からなくなりました。だからせめて、自分で少しだけ考えるように努めてください。そうしてもらえると、会話は楽しくなります。配信される情報の背景にも興味が持てるなら、どうか、そうしてください。私は最近、自分の発言がイヤらしくもなりました。いちいち言葉の意味を尋ねるようになりました。なぜなら、同じ言葉でも違う意味で使っている事があるからです。その先の文脈も違う可能性もある。丁寧に会話をしようと努めています。

妻の実家にある「響」を勝手に拝借しながら書いています。いま日時は2019年1月4日0時2分です。

皆、寝ています。ああ、なんて充実した時間だろう。一年に一度訪れる学習と思索の時間。私はいろいろな事に文句があるのではないのです。私はただ、知りたいだけです。自分の周辺のことや親しい人のこと、今の時代の課題や問題点、社会の仕組みや格差の出現について、どうしたら自由や平等という言葉を使わなくても人間を表せるのかや明日の新幹線の混み具合、新しく開店するポテトの「ムッツモッツ」へのお祝い内容、明日の天気、今年の運勢、来月のメニュー内容、そうした色々を知りたい。興味があります。そして理解したいのです。

なぜか?

そうすると、私は穏やかに過ごせます。

美味しくお酒が飲めます。

そういうことです。

私の思想は社会を良くする為のものではなく、社会を理解するためのものです。私に理想があるならば、それは、みんなが社会を理解した先に穏やかだといいなぁ、と言うことですよ。よく分かりませんが、そう言うことだと思います。

長くなるので、今回はこれくらいで無理やり閉めます。

また書きます。