嫁さんがインフルエンザ、から見えること。

2019年12月10日ミズタニ行進曲

2019年12月8日の日曜日。夕方から嫁さんが発熱。翌朝、病院を受診してインフルエンザと判明。まさに、京都は流行期だ。ワクチンを接種している事もあり、重症化は免れたが頭痛がひどいと言う。熱もさほど高くはない。インフルエンザの特長である関節痛もあまりない様子だ。が、しかし。動けはしない。倦怠感がひどい。インフルエンザは日常を容易く崩してくる。

 

昨夜は映像学部生たちの作品上映会だった。会場はイルピアット紙屋川。80インチのスクリーンを張って大学でレンタルしたプロジェクターを利用しての作品上映会だった。紙屋川を撮影舞台にした作品もあったので、私はもとより、かの子も観たいと言った。一番初めにその作品を上映してくれた。いくつかの作品を見てから、私は途中で退店した。家事を賄うことになったのだ。後の事は学部生でアルバイトでもあるおすぎとさおりに任せた。

 

急遽、晩ご飯を家で食べる設定になった。自宅近所のスーパーで買い物をして簡単に調理をして済ませた。翌日分の朝食までを買い物した事もあり、今朝はスムーズに2人を見送れた。嫁さんは私が出勤した後直ぐに帰宅して寝込んだが、彼女の昼ご飯くらいまでは想定内だったので問題はなかった。私は定休日だが昨夜の片付けまとめと明日からの準備をこなした。午後からは保険のミーティングが入っていた。

 

嫁さんがインフルエンザになった事で、「奥さんが倒れたらどうしますか?」という保険担当のバヤシさんから言われていた言葉が現実になった。しかし私は家事が苦手じゃない。むしろ得手だと思っている。かの子にまつわる情報が少ない事で確認する事柄は増えるものの、幼児ではないので困ったりはしない。かの子の情報が少ないのは接する時間の量に比例する。これは詰め込めば理解できるものではなく、丁寧に情報を獲得して理解しなくてはならない。かの子はその存在が「情報」としてのソースではない。かの子は実存だからである。とは言え、今日の夜あった約束は全てキャンセル。家事だけをするなら困らないが、私の仕事柄そうはいかない。考えさせられる。

 

今回は幸いにも、私の定休日にインフルエンザが発覚した。私はミーティング後にかの子を学童へ迎えにゆき、その足で晩ご飯も用意した。かの子と2人での外食を計画したが行くお店が決まらず、結局、少しの惣菜と私の調理で賄った。嫁もそれを口にした。結果、家族3人で食卓を囲んだ。もちろん、買い物に行き明日の朝食、昼食、晩ご飯までを想定して済ませている。簡単に温めて調理し直すだけで出来るように段取りした。風呂も、布団も、洗い物も、かの子の明日の準備も済ませている。そしてかの子は既に就寝した。いま時刻は22時22分だ。

 

私がもし、サラリーマンで定時に帰宅できるならこんなにスムーズな事はない。家事の全てを賄っても時間は作れる。家計の不安もないなら尚更だ。毎日、私が食卓を用意しよう。風呂も洗濯も何でもない。寝る準備、明日の支度も訳はない。こんなにも時間ができるのだ。家にいて、全てが片付けばこうして文章も書けるし本も読める。かの子は寝る前、私と一緒にこのテーブルで読書をしていた。BGMにクリスマスのインストロメンタルを流しながらとても穏やかな時間だった。何よりも、かの子が嬉しそうだった。

 

私は若い頃、結婚そのものに懐疑的だった。制度的な倫理観に縛られるような感覚を持っていた。それは気持ちや感情とは別に用意された「制度の働き」であって、恋愛や感情の高まりの帰結に選ぶものじゃないとさえ考えていた。何よりも、自分の自由度が損なわれると考えていた。誰に構う事なく、誰かと付き合い、消費し、飲食し、人間を謳歌するのだという欲求を爆発させていた。オープンカーを走らせていい気分だった。結婚はしなくても構わないと思っていた。ひとりで生きるのは何よりも楽しいと疑わなかった。

 

私はいま45歳だ。嫁はあと3日後に43歳になる。かの子は8歳。こんな人生があるなんて。かの子を授かり迎えられた事が全てを変えた。完璧だった。かの子という存在は私をひっくり返してしまった。私はいつからか街を歩くとき、「自分のために歩かなくなったな」と思った。街に出る時は人に会うか、映画を観るか、買い物をするかだけである。目的が決まっている「人に会う」「映画を観る」の場合、ウロウロしない。目的地へ行けばいい。「買い物」は自分のものならamazonかイズミヤで充分に済んでしまう。「誰かに買うもの」の時にだけ街を散策する。以前は「自分のため」に歩いた街を、今は「誰かのため」に歩く。

 

家族を持ち、少し未来の生活時間を考えるようになった。そこに苦痛はない。面倒でもない。むしろ豊かだ。かの子と話せるようになってそれは尚、豊かだ。嫁さんの健全さ、かの子の快活さ、私の労働。これが現在の水谷家だ。その一角が寝込んでもいまは補える。「いまは」、である。この少し先はどうだろうか。そんな事、これまで考えてこなかった。単純な保険に入って、自分の役割を全うする事で日常は揺らがないと考えてきた。資産もないが、所得の運用も考えたことなどなかった。そんな余裕は私にはなかった。これまで、ここまで、がむしゃらに辿ってきた。

 

この少し先の未来を考える。今年は昨年よりも飲食店舗の倒産件数は増えるという。消費税増税のあった10月の景況感も悪化と出た。景気の悪さを増税のせいだけにするのは単純すぎる。消費には倫理観も作用する。つまりは、きちんとルールを守っている社会にしか健全な市場も消費も生まれない。国のトップがのらりくらりと嘘やごまかしを繰り返す有り様では、健全なマインドを持って安心した消費など積極的にできようはずがない。一部のクソ金持ちは論外として、爪に火を灯す生活の人々は、せめての事、国のトップが嘘やごまかしの疑惑に塗れていなければ希望も抱けるように思う。せめての事、である。

 

これまでもこの国は「環境」について深く取り組んでこなかった。生活、職場、労働、学習、教育、健康、消費、納税、選挙、民主主義、資本主義・・・・ありとあらゆる環境である。全ての現象にはそれを生じさせる環境がある。言い換えると、環境によって現象はその性質を決定づけられもする。同一環境下で必ずしも同一性質が生まれないのは、そこに個々のアイデンティティがあるからだ。それを初めて「個性」と呼ぶ。しかしながら、環境から受ける影響は良くも悪くも文化になる。その個々にとっての文化は自身のアイデンティティを育む動機になる。これも良くも悪くもだ。

 

この国には、全体主義的な思想や突出した権力行使について憧れさえ覚える文化がある。島国だからなのか、日本だからなのか、伝統も歴史も長く持ち過ぎているからなのか、私にもはっきりと分からない。しかし「何かに任せておこう」という他力本願は日本の真骨頂だ。国際的にも、歴史的にも、大きくも小さくも、国も村も同じ性質だ。そこかしこに神様がいる事からもよく分かる。これをひとつの環境として考えるとき、私たちの国は美徳としての「従順さ」があると言える。冠婚葬祭などの礼節作法から文化的伝統の茶華道、年功序列による権威の付与、敬語による自身の立ち位置表明と謙虚さ。これらには「頭を下げる」事が必須になっている。

 

これらはあまりにも自明な事なので、疑う隙間がない。これらの文化はこの国で人と付き合う為のスキルでもある。マナーとはそういう緩衝材だ。私はこの文化を悪いと思っていない。むしろ、面倒ではあるものの面倒さを理解した者同士を仲良くもさせるので都合が良い場合が多い。他者と感覚の違いを測る時には礼節が一番くっきりする。上部だけだが仲間意識をいち早く構築できる。これは逆説的に、違う性質もくっきりさせる。異質な者の排除にもうってつけな文化だ。この国に多様性なんてものは育ちようがない。到底、受け入れられない。日常に染み付き根付いた礼節の感覚は権力に対しても従順になりやすい。

 

ある事柄で皆と同じ行動や考え方を持ち、国家、国民、仲間・同志・同類という一体感を覚える。しかし他方、何かのミスを犯すとカバーして貰えるどころか断罪されてしまう。「同じ存在」という意識は、礼節やルールを守れている状態でしか有効ではないだ。「離れて行かないように皆で何とかしよう」という意識が一番に働くならば、ネットを中心にして巻き起こる断罪キャンペーンはどう説明しようか。これが権力者に起きる場合、権力者に媚びる人間と断罪する人間とによる闘争様式が出現する。

 

権力者は自身の行為を正当化する為により一層、派閥意識を強める。よりタコツボ化をする。そのタコツボの権威と影響力に媚びる人々を多く取り込んで自陣に据える。それを断罪する側もまた同じくタコツボ化する。その構造はどちらも同じなのだ。しかしだ。先にも話した通り、権力者が自分勝手なルールで権力行使をする事は社会を不安定にさせる。タコツボ化した権力は全ての場合、それ以外に配慮しない。それは国の堕落を示している訳だが、この国の民主主義ではこのタコツボ化を解く事は難しい。なぜか。礼節が重んじられているからである。

 

仲間でいる為には従う事が強要される。大なり小なり、そういう事になっている。飲み屋にさえそういう空気がある。個々に持っているアイデンティティなど考慮されない。礼節を守れている事が条件だ。その条件は権力者によって気分で書き換えられてゆく。突然に書き換えられるのではない。分からないように書き換える。ずっとそばにいる人間を見極める為にも、権力はそういう面倒な手順を踏む。礼節がそもそも面倒な手順である事は先に述べた通りである。礼節とは便利ではあるがそこには常に権威が存在する。

 

それらを保障するものこそ環境である。礼節にはそれを行使する為の環境が必要である。環境が難しければセッティングが必要と言って良い。行事はきちんとセッティングされた場面でしか行われないものである。先に挙げた「生活、職場、労働、学習、教育、健康、消費、納税、選挙、民主主義、資本主義・・・・」は、ただの平原や大自然では行われない。すべて社会的なのだ。そしてそれらは文化的でもある。つまりは、どの様なセッティング(環境)が整っているかによるのだ。礼節には環境が必要。そしてその礼節は権威を持つ。この国には「都合の良い個人主義」と「礼節に引っ付いた全体主義思想」が歪な形で結びついている。

 

間違いや過ちを犯すと断罪される。しかし時の権力者は「どこ吹く風」である。反対に、自身の権威を非難する存在を骨抜きにする為にプロパガンダとしてメディアを動かす。メディアは大衆に対する影響力を甚大に持つ。芸能人やコメンテーターを使って、文化人や気取った金持ちを取り込んで、自身の権威に媚びさせる。その上でそうした「仲間」にだけ手厚く接する。忖度するのだ。これまでの政権は大衆に忖度する姿勢を見せてはバランスを取ってきた。しかし選挙で手厳しい審判が下されない経験を積むと、大衆への忖度など取るに足らなくなった。安倍政権下では大衆への忖度はなくなった。つまりは、礼節はない。

 

個人の能力が低い事を単純に個人の責任とする風潮が強くなっている。そこには能力開発ができなかった環境への眼差しが欠落している。環境によって開花できない事柄の方が多いはずだ。しかし私たちの社会では、それを個人の問題として考えてタコツボ化させる。全体から求められる人間性を獲得する様に努力しても、環境が整わなくて開花しないと個人の責任にされる。であるならば、全体から求められる人間性など獲得する努力は放棄して良いのではないか。国家が国民に対する礼節を欠くのであれば、国民は尊厳を保障されない。生産性などの言葉に表象されているように、この国は個々の能力に責任を押し付けて、全体主義的な功利主義思想による「国のため」というスローガンを過去にも掲げた歴史を全く反省していない。その証拠に、構造が何も変わっていない。環境も文化も、平安時代から何も変わっていない。こんなものを伝統と呼んで大切にしてはいけない。

 

権力が好き勝手にする伝統など、守らなくて良い。全くありがたくない。トップの堕落は人々を苛つかせる。景況感が上がらないのは政権が不誠実に映っているからだ。全く明るくない。バカバカしい。ふざけるなと言いたい。言い逃れも日本語の品位を貶めいている。「何とでも解釈できる言語なのだな」と言われているだろう。ポケトークなんか使い物にならない。問題の説明をしている官僚や官房長官にポケトークを通して英語訳を話させてみればいい。そこに立ち上がる文脈こそがシンプルなのだろう。ポケトークの開発者もお墨付きを与えて使用して貰えばいい。東京五輪でポケトークを活用して国際交流を図る為にもうってつけの提案じゃないか。

 

こんな事を私に書かせるなんて、本当にバカバカしい。なぜ景気の良くなる実感がないか。なけなしの銭をパーっと使えるように明るい話題を政権は出して欲しい。アベノミクスはどこへ行ったのだ。沖縄の県民投票結果を踏みにじった事に他道府県は怒りを表明しもしない。これこそ、全体主義思想だし都合の良い自己責任論の極みと言って良い。全国知事会を招集して全会一致で政権に非難を申し出るくらいあってもいいはずだ。明日は我が身としない為にも、政府に媚びる他道府県知事たちは沖縄を犠牲にしている。知恵を出し合う機会もない。よくも「個人がキラリと光る」という言葉を使って所信表明をしたものだ。景気は良くならない。個々人のせいじゃない。環境のせいだ。そこに関心を寄せない政策の責任だ。

 

嫁さんがインフルエンザになった。久しぶりに家事をして、日本の一般日常生活に触れた。その事で多くの事に気付かされた。色々をまとめたい気持ちになった。かの子と話すことも楽しい。忘年会はまたすればいい。予定変更は次の一手によってきっと不快を解消できるものなのだ。社会にもそういう作用を求めたい。私たち一人一人にもそうしたゆとりが欲しい。いまの政権は堕落したが、私たち個々人までが堕落するのは早すぎる。そこに気持ちを寄せるためにも、家事をこなすことはとても良いことである。日常生活にこそ思想は育つ。

 

以上、「嫁さんがインフルエンザ、から見えたこと」でした。